表紙へ戻る



倉賀野追分玉村宿 五料宿柴宿 境宿木崎宿太田宿八木宿梁田宿天明宿犬伏宿富田宿栃木宿合戦場宿金崎宿

L合戦場宿かっせんばじゅく                         街道地図
合戦場宿はその名のごとく「サル・カニ合戦の由来となった」なんてことではなく戦国時代の大永3年(1523)
宇都宮忠綱と皆川宗成が合戦した川原田合戦に由来する。街道時代は本陣、脇本陣があり飯盛女もいたそれなりに
賑わった宿場であったが、宿場時代が終わると他の宿場と同様に静かな町並みとなってしまった。

 平成24年11月28日

栃木宿の終わりに油伝(あぶでん)味噌で味噌田楽を食し休憩もしたので足取りが軽くなった。

ほどなく三叉路に差し掛かるが ここは「足尾道との追分」(左)。比較的新しい道標に「足尾道 日光道」と刻まれている。ならば右へ。

街道はこの先で県道を横断(ここには信号も横断歩道も無い)。その先数分、「一乗院」(右)の本堂屋根がなんともバランスが悪い。鬼瓦がちょっと大きすぎるのです。しかも3個も乗っている。

まもなく県道3号に合流。その先の東武日光線の跨線橋を渡ると合戦場宿に入っていくのだが見慣れない石塔が。

「軍馬霊」(左)、はて? 聞いたこと無いが。

その先には「馬力神」(左)が。こちらは日光西街道でよく見かけた石塔であるが、いずれも「愛馬の供養塔」といった意味合いの石塔だろうか。

合戦場宿に入ったらちょっと寄り道を。

東武日光線の踏切りを渡った右奥の神社は当地の守護神として慶長元年(1569)に創立された「磐根神社」(左)。当初は星宮大権現と称されていたが明治の神仏分離令により現社名に。
木製の常夜灯と赤色のぼんぼりが並んだ参道(冒頭写真) は時代劇に出てきそうな。

街道に戻り数分、民家の前に石碑が。「小平浪平誕生地」(右)と刻まれている。はて?誰だろう。 説明板を読むと「この〜木 何の木 気になる木・・・・・」の日立製作所を創設した人物であった。

そのすぐ先が合戦場宿の本陣・脇本陣があった場所だが今はごく普通の民家。街道右側が「秋田家本陣跡」(左)、対面が「若林家脇本陣跡」(左)であるが、石碑、表示などは無い。

合戦場宿は木戸間が5町(約550m)ほどの小さな宿場であったが飯盛女がいたことからそれなりに賑わっていたようだ。

宿場を出た先の民家の庭に「六基子育て地蔵尊」(左)の立派な御堂が。話せば長くなるが、お告げにより近くの川から引き上げた石に六体の地蔵様が刻まれていたという。

その先の案内板に従って右へ入ると小山があるが ここは「升塚」(右)と呼ばれる戦死者を弔った塚。
今から500年近く前の大永3年(1523)、宇都宮忠綱と皆川宗成が衝突、皆川勢の援軍を含めた300名以上が戦死した合戦であった。里人が死者を一ヶ所に集め弔った場所。

升塚のちょっと先から旧道に入っていくが再び県道に合流。合流直前に 「地蔵堂」(左下)があり延命地蔵が祀られている。敷地の一角に多数の石塔が並んでいるが その中で特に大事にされているのが「十九夜塔」(下)。十九夜信仰は旧暦19日の夜に女性達が集まり念仏を唱えその後、飲食し歓談するという、女性達の娯楽 とでもいう女人講。北関東に多かったようだ。

合戦場宿を出てかれこれ1時間、「猿田彦神社」(左)があったので寄り道を。
傍らの説明碑によると『祀られている猿田彦大神は天孫降臨の際、高天原の神々を無事地上へ案内したことから「道開きの神」「旅の安全の神」として信仰を集めている』とある。ならばお参りをせねば。

境内の一角に立派な「宝筺(ほうきょう)印塔」(右)が建てられている。標柱に「 史蹟 良仙院跡(宝筺印塔) 」と記されているが かつてはここに寺院があったのだろう。

前の宿場栃木宿    次ぎの宿場金崎宿    表紙へ戻る