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C境宿さかいじゅく                                     街道地図
境宿は鎌倉時代から広瀬川の舟運で発達した集落で、例幣使街道が開通すると柴宿と木崎宿の間宿として
問屋場が置かれたが幕末の文久3年(1863)に正式に宿場に格上げされている。 毎月、二と七の付く日に
行われる六斉市は大変な賑わいで特に生糸の取引は上州一と称され、明治以降は伊勢崎織物の一大生産地へと
発展していく。

 平成24年9月4日
柴宿を出てかれこれ1時間、期待した忠治茶屋が定休日で残念であったが、もう一つ残念なことは右赤城が民家の向こうになっていたことだ。ところが武士橋までくると正面に
「赤城山」(左下)がきれいに見えるではないか。

例幣使一行は赤城山を見ながら 竹石の渡し で広瀬川を越えていったのだが今は渡しが無い。武士橋を渡り100mほど歩いたら左に入り旧例幣使街道に復帰。昔のまま、とは言わないが鄙びた雰囲気が残る旧街道を歩いていると例幣使一行の時代が偲ばれる。

ほどなく真新しい鳥居の後ろに築山が見えるが ここは地元の人たちから「御嶽山」(右)と呼ばれる信仰の山。一里塚だったとも云われているが定かではない。隣の赤い鳥居は一本松稲荷大明神

旧道を10分ほど歩くと国道354号に合流。その先に建てられた標柱に「右 旧例幣使道」(左)。

再び旧道に入ると先ほどと同じようなたたずまいの町並みとなるが この辺りが「乳母の懐」(右)と呼ばれた場所。
古老の言い伝えでは、輿に揺られ居眠りした勅使が武士村との境まで向えにきた境宿の町役人に起こされると「乳母の懐に抱かれていたようじゃのう」と言ったのだとか。

乳母の懐を抜け境萩原の交差点から右へ曲って行く道が旧例幣使街道であるが ちょっと寄り道を。

左へ曲って5分ほどの境図書館に隣接している木造2階建ての屋敷は「絹の館」(左)。大正から昭和にかけて絹織物で財を成し 地元の織物産業発展にも尽力した金子仲次郎の遺宅であったが現在は伊勢崎市が管理。

境萩原交差点まで戻り例幣使街道の旅を続けることにしよう。 交差点のすぐ先が「問屋場跡」(右)。

その先、スーパーの駐車場脇に「織間本陣跡碑」(左) があるが、ここは寛文2年(1662)に伊勢崎藩士鶴田弥太郎の家を移築し、後に本陣としたもの。残念ながら取り壊されてしまった。石碑に 時鳥我身ばかりに 降雨か 一茶 が刻まれているが これは家主不在だった織間家を尋ねた小林一茶が残した句。

織間本陣の少し先(群馬信金前)に建てられている石碑は 「飯島本陣跡標柱」(右)。 飯島家は文政12年(1829)まで本陣であったが破損した家の再建ができず織間家に本陣をゆずっている。

本陣跡から数分、堺町駅入口交差点まで来たらまたまた寄り道を。
駅方向に300mほど歩くと見えたのは「赤レンガ倉庫」(左)。 
横浜の赤レンガ倉庫ほどではないがかなり大きい。大正8年(1919)に建てられた倉庫は繭の乾燥に使われていた。

交差点まで戻り反対側の道を進むと突き当たりが「瑳珂比神社」(右)。元々は石剱(いするぎ)稲荷大明神と称していたが後に町内の七社を合祀して瑳珂比神社と改称。社殿は享和元年(1802)の建築。

瑳珂比神社からもう少し足を伸ばした長光寺の境内左手に「芭蕉句碑」(左)がある。
 春も漸 けしき調う 月とむめ  芭蕉翁

長光寺の反対側は愛染院無量寺。鐘楼門を入ると臥龍松の向こうに立派な本堂が見えるが、その左手の石塔群の中に「二十二夜塔」(右)が1基。女人講によって安永9年(1780)に建てられたもので台座は「右本庄 秩父道 左中瀬 江戸道」と刻まれた道標。

街道に戻って旅を続けよう。
堺町駅入口交差点からちょっと歩いた先の群馬銀行駐車場の辺りが「高札場跡」(左)。

街道を右側に移って数分歩くと思わぬ標柱が。「落語家第五代 古今亭今輔生家」(右)と記されている。日本芸術家協会(現落語芸術協会)の会長にも就任した古今亭今輔は「お婆さん落語」が得意だった。

境宿の街道筋には蔵造りの家が多く見られるが昭和レトロただよう看板建築もありました。
今輔師匠生家のすぐ先、町屋と合体した「板倉屋薬局」(左)の看板建築がひときわ目立つ。昭和8年(1933)の建築だが当時は極めてモダンな建物だったのだろう。

その先数分の菓庵水戸屋は明治28年(1895)創業の老舗。店頭に建てられた石碑は「かりやど宿碑」(右)。中山道沓掛宿の先にも借宿(かりやど)という地名があったが、ともに間宿の意。

街道はこの先で枡形道となっているがちょっと複雑。境東の三叉路を過ぎたら右に入りの字型に曲っていく。

枡形道の途中に「東町の道しるべ」(左)と記された標柱があるが隣の石塔は天明7年(1787)に建てられた道標。文字はほとんど読み取れないが「此方世良田 たてはやし道」「右江戸 なかせ」「日光きさき道」と刻まれているそうだ。

枡形道が終わると国道にぶつかるが その向こうに見えるのは稲荷神社。ここにも境内の端に「芭蕉句碑」(右)が。
  時鳥 招くや麦の むら尾花    翁

国道を横断した旧例幣使街道は稲荷神社の脇を通っていくのだが今は道が無い。宿場方向に少し戻ると「左 旧例幣使街道木崎宿方面」(左)と記された標柱が建てられているのでここを右に。
 注:宿場側から見ると左が木崎宿方向となる。この先も右へ左へと曲っていく。

女塚会館脇の石塔は「女塚薬師道しるべ」(右)。 天明8年(1788)に建てられた庚申塔を兼ねた道標で刻まれている道筋は「右 薬師湯泉道」「左 太田 日光」。

道標から5分ほど歩き東武伊勢崎線の踏切り手前を左に入った奥の小さな寺院は「法楽寺」(左)。かつては七堂伽藍の整った大寺院であった。 その法楽寺住職・法印重英 入滅の言い伝えが凄い。
享保の頃、女塚村に悪病が広まりさながら地獄の有様。重英は「悪病平癒はわが法力以外なし」と生きながらにして塚に入り村人に鐘の音が絶えたら私が死んだと思えといった。21日目に鐘の音が止み、それと同時に悪病が治まったという。

街道は東武伊勢崎線の踏切りを渡って右に曲がり県道312号を歩くのだが途中にあった「子育て地蔵」(右)は願いが書かれた赤いタスキでぐるぐる巻きに。

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