表紙へ戻る


鎌倉街道上道

 (1)鶴岡八幡宮から寺分   (2)寺分から下飯田  (3)下飯田から上瀬谷  (4)上瀬谷から本町田  (5)本町田から関戸  (6)関戸から西国分寺  (7)西国分寺から所沢   (8)所沢から狭山  (9)狭山から西大家 
     (10)西大家から鳩山町  (11)鳩山町から嵐山町  (12)嵐山町から能増  (13)能増から小前田  (14)小前田から児玉  (15)児玉から神流川   (16)神流川から西山名駅  (17)西山名駅から高崎城址

(11) 鳩山町から嵐山町まで    街道地図

鎌倉街道上道の旅 11回目は鳩山町から嵐山町まで。

この先は冬枯れの長閑な田舎道。笛吹峠を越え、往時の館跡を見たりしながらの旅だが途中には消滅した
はずの掘割道があったり、平安時代に活躍した武将・坂上田村麻呂に係わる神社や橋があったり、さらには
鎌倉時代の悲劇の武将・畠山重忠像があったりと、飽きない旅ができる。
鎌倉街道は東武・武蔵嵐山駅近くで川越・児玉往還に合流して小川町に向かっているが、そのルートは
詳細には分かっていないようだ。

 平成30年1月11日

東武東上線坂戸駅からバスに乗り終点の大橋で下車して前回の続きを歩く事に。

大橋交差点を横断し新橋を渡って県道41号に入ると早速 「鎌倉街道の案内板」(左)が。この案内板には所沢から鳩山町を通り旧神川村までの鎌倉街道上道のルートが描かれている。

県道を十分ほど歩いたら左に曲がって笛吹峠に向かうのだが曲がる所に「笛吹通り」(右)と案内表示があるで分かりやすい。

笛吹通りに入って数分、山の麓に見えるのは「羽黒堂(左)。石地蔵が納められているが次のような言い伝えが。
その昔、お歯黒をした大将の首が埋められた、とも、家来にはぐれて討たれた大将の首が埋められた、とも、幾つかの言伝えが残されている。

そのすぐ先の丁字路際に大正15年(1926)に造られた「道標}(右)が一本。刻まれている行き先は「将軍澤ヲ経テ鬼鎮神社ニ至ル 今宿及ヒ坂戸方面ニ至ル」「玉川ヲ経テ坂東九番ニ至ル 坂東十番ニ至ル」。

さらに数分歩くと街道際に「板碑」(左)が3枚。

その先に見えたのは「海道端沼」(右)。「海道」は江戸時代中期以前に使われた言葉で街道のこと。
道端の沼といった意味だろうか。農業用の溜池のようだが詳しいことは分からない。
この先あたりから笛吹峠への上り坂となるがそれほどキツイ上りではない。

笛吹通りに入ってかれこれ20分ほどで「笛吹峠」(左)に到着。以外と早く頂上に到着したが ここには笛吹峠の説明板や休憩用の東屋・トイレなどが用意されており「笛吹峠碑」(右)もある。

この地は新田義貞の三男・義宗らが宗良親王を奉じて足利尊氏軍と戦かった最後の地。 伝承によると、負け戦となった新田義宗らは越後へ落ちていったが、この敗退の陣営で宗良親王が折からの月明かりの中で笛を吹いたことから「笛吹峠」と呼ばれるようになったという。

この峠を「巡礼街道」(左)が東西に横切っている。この道は ときがわ町の坂東九番慈光寺観音から東松山の十番岩殿観音を繋ぐ道。先ほど見てきた道標の「坂東九番、十番」とはこのことだろう。、

この先は下り坂であるが現在の道路は往時の鎌倉街道とは微妙にずれている。現道路の西側に往時の遺構があるということだが笹藪が深くて入ることができない。10分ほど下ったところに笹藪が刈られた場所があったので入ってみると「掘割状の遺構」(右)が確認できるではないか。南北に100mほどであったが藪が刈られたあとは見事な掘割状。

笛吹峠から20分ほど下ると視界が急に開けるが、ここは「将軍澤集落」(左)。平安時代初期、坂上田村麻呂が奥州征伐の途中に布陣した地と伝えられている。

街道際の「文字庚申塔」(右)の先を右に入ると妙光寺。本堂の左手前に文応元年(1260)の銘がある「阿弥陀三尊種字板石塔婆(板碑)(右)が1基。 

数分先の日吉神社鳥居脇に「坂上田村麻呂将軍塚」と刻まれた「将軍塚碑」(左)が建てられている。古そうな石碑に見えるが近くの大行院が平成13年(2001)に建てたもの。

鳥居の奥は日吉神社。その末社である「将軍神社」(右)が参道の突き当りに鎮座。祀られているのは征夷大将軍坂上田村麻呂。

その坂上田村麻呂に係わる橋がちょっと先の「縁切り橋」(左)だ。
説明板によると坂上田村麻呂が軍勢を引き連れてこの地に滞在。そこへ、将軍の奥方が京都から心配のあまり訪ねてきたという。しかし田村麻呂は 「上の命令で派遣されている我に妻女が訪ねてくるとは何事だ。今より縁を切る」と宣言。
以来、この橋は「縁切り橋」と呼ばれているのだとか。

数分歩いた先に「神明宮」(右)の大きな鳥居があるが地図には「大行院神明殿」とある。鳥居の下に「関係者以外立ち入り禁止」とあり対面には「ビデオ・写真撮影禁止」と看板が出ているのでこれ以上は触れないことに。

神明宮の数分先、畑の向うに見える「安養寺山門」(右)は天保10年(1839)の造営。説明板に「重厚で気品あふれる風格をそなえ貴族的趣味を彷彿とさせる」 とあるが確かに端正な気品ある造りだ。

その先を右に入ると「源義賢の墓」(右)とされる小さな堂宇がある。 納められている墓は埼玉県内最古とされる五輪塔で義賢ゆかりの人々が供養のために建立したも。埼玉県指定史跡。
義賢は六条判官源為義の次男で源頼朝・義経の叔父にあたり、巴御前とのロマンスがある木曽義仲の父親。

街道に戻り県道172号との交差点まで来ると鎌倉街道碑が建てられている。この交差点を横断していくのだが寄り道を。

向かった先は「大蔵神社」(左)だが その途中の街道際にあった石碑は大蔵館跡碑。神社周辺は平安末期頃の仁平2年(1152)から久寿2年(1155)までの間、源義賢が館を構えていたと伝わる場所。義賢は久寿2年(1155)、悪源太義平に討たれ30歳という若さで生涯を閉じた。

交差点まで戻り4~5分歩くと左奥に見えるのは鎌倉時代の創建と伝わる向徳寺。墓地に多数の板碑があるが山門脇の覆屋の中にもその一部、16枚もの「板碑(板石塔婆)」(右)が展示されている。最も古い板碑は建長2年(1250)頃のもの。

向徳寺を出て都幾川に架かる学校橋を渡ると上り坂。その途中にあったのは「蛇坂の水神塔」(左)。江戸時代、都幾川の水運に関係した人々によって造立されたもので裏面の銘は文化5年(1808)

坂を上りきって国道254号の交差点まで来たらまっすぐ行かず左に曲がって「菅谷館跡」(右)に寄り道を。
鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠の館跡とされた場所であるが現在見られる館跡は戦国時代に築城された菅谷城跡。この城跡は「続日本100名城」の一つ。
 

菅谷城は室町時代から戦国時代にかけて改築を繰り返しながら拡大していったようで「本郭跡」(左)を中心に幾つもの郭が取り囲んでいる。畠山重忠の館は本郭跡辺りにあったようだ。

本郭前の高台に「畠山重忠像」(右)が。
鎌倉幕府に忠誠を尽くしていた重忠であったが頼朝の死後、時の執権・北条時政の謀略により落命。鎌倉街道中道 浜街道(絹の道)が交差する鶴ヶ峰(横浜)周辺には畠山重忠に係わる遺跡が多く残っている。

 

菅谷館跡から国道まで戻り横断して100mほど歩いた先は「稲荷塚古墳」(左)。 周辺には多数の古墳が存在したが大半が壊され今はこの古墳のみとなってしまった。復元された石室を覗くことができる。

街道に戻り10分ほど歩くと中山道の裏街道と言われた「川越児玉往還に合流」(右)。
この先の鎌倉街道の道筋はハッキリしていないがテレビ埼玉編『鎌倉街道夢紀行上道コース』によると小川町・奈良梨までは児玉往還に重なっているようなので奈良梨まではこのルートを歩く事に。

児玉往還に合流し武蔵嵐山駅近くまで来たが、この辺りは菅谷宿があった場所。しかし往時の面影は見られない。僅かに時代を感じさせてくれるのは古風な建物の「根岸医院」(左)。

嵐山三叉路の先、県道と別れ左の道を入るとすぐに見えたのは「東昌寺山門」(右)。
山門隣に観音堂があるが元々は徳川秀忠の乳母・正心院の持仏であった千手観音が祀られていた多田堂。この御堂は昭和10年(1935)の大火で焼失したため、その後に再建。

東武線武蔵嵐山駅が近いので今回の旅はここまで。

前の街道西大家から鳩山町に戻る   次の街道嵐山町から能増まで   表紙へ戻る