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鎌倉街道上道

 (1)鶴岡八幡宮から寺分   (2)寺分から下飯田  (3)下飯田から上瀬谷  (4)上瀬谷から本町田  (5)本町田から関戸  (6)関戸から西国分寺  (7)西国分寺から所沢   (8)所沢から狭山  (9)狭山から西大家 
     (10)西大家から鳩山町  (11)鳩山町から嵐山町  (12)嵐山町から能増  (13)能増から小前田  (14)小前田から児玉  (15)児玉から神流川   (16)神流川から西山名駅  (17)西山名駅から高崎城址

(6) 関戸から西国分寺まで    街道地図

鎌倉街道上道の旅、6回目は関戸の霞ノ関跡前から。

関戸は鎌倉時代に関所が設けられた場所だが、この近くは鎌倉攻めする新田義貞と幕府軍が激しく戦った
場所でもある。ほどなく多摩川を渡るが この先は芳賀善次郎氏によると京王線・中河原駅の先から右に
折れて武蔵国分寺辺りに向かう西ルートと下河原を通る東ルートがあった。
今回は東側のルートを歩き甲州街道の府中宿大國魂神社に寄り道し、その先では武蔵国分寺に寄り道して
JR中央線の西国分寺駅までの旅とした。

平成29年10月6日

関所跡から数分歩くと道路際に「常夜灯と馬頭観音」(左)が。
側面の銘を見ると明治丗六年(1903)とある。 「 丗 」 この漢字に出会うのは久しぶりだなー。

もう少し歩いた先の民家の庭に「安保入道父子の墓」(右)がある。新田軍と北条軍の激しい戦いが行われた時の総大将・北条泰家を逃がすためここに踏みとどまり討ち死にした人物。
この墓は民家の庭内にあるのだが、たまたま居合わせた家人にお願いして見せてもらったものです。
 

すぐ先を左に入ると高台に見えるのは「観音寺」(左)。建久3年(1192)、唐僧が草庵に聖観音菩薩像を安置したのが始まりという古刹。古くは関戸の観音様として信仰を集めていた。

その観音寺墓地に「相澤五流・伴主父子の墓」(右)がある。五流は三多摩初の法眼位を獲得した狩野派の絵師、息子の伴主は関戸村の名主であって生花「允中流」の創始者でもあった。

覆堂内に相澤五流の父・相澤了栄が天明元年(1781)に奉納した六道に輪廻する衆生を救う仏様・六観音が鎮座。

街道に戻り5~6分、道路際の階段上に見えるのは「関戸古戦場跡標柱と地蔵堂」(左)。
元弘3年(1333)5月、分倍河原で幕府軍と戦った新田軍は関戸で再び幕府軍と合戦となり勝利。勢いに乗った新田軍は6日後に首都鎌倉を征圧。

地蔵堂横の細い道を入ると民家の庭奥に「横溝八郎之墓」(右)が見える。安保入道父子と同じく北条秦家を守って討ち死にした武将。後ろは武将塚となっているが、この時期は樹木に隠れ見えない。

この先数分歩いて大栗橋を渡り、さらに数分歩くと現・鎌倉街道に合流。その先の多摩川に架かる関戸橋を渡ると府中市。

関戸橋を渡り交差点を右へ横断すると変な形のオブジェが。これは「中河原渡し碑」(左)。変な形だね~。
説明文によると「中河原村が経営していたので中河原渡しと呼ばれたが、対岸の関戸村でも関戸渡しが設置されていた。これらの渡しは関戸橋が竣工した昭和12年(1937)にその歴史の幕を閉じた」 とある。

この先の鎌倉街道は旧官道を利用した東ルートと、新田義貞鎌倉攻めの際通った西ルートの二つ。(右地図)

渡し碑を見た後は多摩川の土手沿いに歩き、多摩郵便局の先を左に入り しばらく歩くと旧道に復帰。

旧道に入ってすぐの「八幡神社」(左)は創建年代不詳だが人口350人ほどの下河原集落(連光寺村)の鎮守。
この先は住宅地の中の細い道をテクテクと。

中央高速の高架下を抜けたらちょっと寄り道を。高速道路の高架沿いに7~8分歩くと「三千人塚」(右)がある。
分倍河原の合戦で亡くなった三千人の戦死者を弔った墓とされていたが発掘調査などから、鎌倉時代の在地有力者一族の小さな塚の集まりということのようだ。塚上の板碑は康元元年(1256)のもの。

街道に戻り住宅地の中の細い道を進むと「下河原道石標」(左)が道路際に。説明書きに「道の名は本町(府中本町)から下川原村へ通じる道だったことから」とあるが鎌倉街道のことには触れていない。

都道18号(現鎌倉街道)を横断した先にある「坪宮」(右)は府中・大國魂神社の境外摂社。坪宮は くらやみ祭の神輿渡御の日、奉幣の儀式を行うという重要な神社。

JR南武線の跨線橋を渡ったら真っすぐ行かず右へ曲がって大國魂神社に寄り道を。

途中にある「善明寺」(左)は創建年代不詳だが江戸中期に現在地に移転。善明寺の寺宝、大鉄仏阿弥陀如来像は建長5年(1253)に仏師藤原助近によって製作されたもので重要文化財。

裏の墓地は東京都指定の旧跡で「神学者の依田伊織と勤王の志士西園寺実満が眠っている」(右)。

善明寺を出たら左へ曲がり大國魂神社西門から神社境内へ。

随神門を潜り、中雀門を抜けると「大國魂神社拝殿」(左)が目の前に。当社の起源は景行天皇41年(111)、大國魂大神の託宣に依って造られたもの、というからその歴史は1900年という古社。
拝殿は明治18年(1885)に改築したが本殿は四代将軍家綱の命により寛文7年(1667)に完成したもの。

境内左手に「松尾神社」(右)という珍しい社がある。京都の松尾大社より御霊を勧請して創建したという「お酒の神様」だ。社殿の右手にある薦被りは東京の地酒。なんと東京に蔵元が9社もあった。

参道を大鳥居に向かって歩いていると、ふるさと歴史館の脇に「武蔵国府跡碑」(左)が建てられている。奈良・平安時代、大國魂神社周辺は武蔵国府の中心地で参道東側には国衙(こくが)が置かれていた。

大鳥居を出て旧甲州街道を横切ると「万葉歌碑」(右)がありました 。
        武蔵野の 草は諸向き かもかくも 君がまにまに 吾は寄りにしを
        草が風になびくように、私は貴方にひたすら心を寄せたのに 片思いですかな。

神社前から京王線府中駅に向かう道は神社の参道で「馬場大門欅並木」(左)と呼ばれ国指定の天然記念物。古くは源頼義・義家父子が欅を寄進し徳川家康も馬場と一緒に欅を寄進している。

欅並木の途中にすっくと立っているのは「八幡太郎義家」(右)。
源頼義・義家父子が奥州平定の戦勝を祈願して寄進した欅が歴代受け継がれ今日に至っていることを伝えるために建立しのだとか。  千年近く後に銅像とは義家もなんとなくこそばゆいのでは。

甲州街道と府中街道が交わる交差点に「大國魂神社御旅所」(左)があるが ここは5月5日の夜、八基の神輿渡御の際、献饌、奉幣等神秘の儀式を行う場所。

御旅所の門に挟まれた建物は復元された高札場。ここは甲州街道と相州街道が交わる府中宿の中心地であった。

御旅所対面の古民家は萬延2年(1861)に建てられた という「中久本店」(右)。一階は野口酒造の地酒販売所、二階は女性の好みそうな蔵造りの喫茶店、その名もずばり喫茶「蔵」
 

そろそろ鎌倉街道に戻らなければならないが坪宮の辺りから北府中にかけてのルートがはっきりしない。近い道として選んだのが甲州街道沿いの「割烹番場屋」(左)横の細い道。番場屋は歴史を感じる古民家、と思ったが昭和45年(1970)頃創業のようで建物もその時に古民家風に建てたのだそうだ。

この先は住宅地の中の細い道を抜けて「府中街道」(右)に合流。
JR北府中駅前、府中刑務所横を通り過ぎたら「武蔵国分尼寺跡←」の石柱があったので寄り道を。

JR武蔵野線の高架下を抜けた先の公園は「武蔵国分尼寺跡」(左)。
尼寺伽藍の中枢部である中門跡・金堂跡・尼房跡などが平面的に復元されている。 写真は金堂跡・

国分尼寺跡の奥、雑木林の中を通る切通しは「国分寺市重要史跡・伝鎌倉街道」(右)。ここは七国山周辺、小野路先の山道とともに当時のまま残された貴重な古道だ。
途中まで歩いたが国分寺跡にも寄り道したかったので引き返してしまったのが残念。

府中街道まで戻り対面の道に入るとその先は「武蔵国分寺跡」(右)。こちらも金堂跡・講堂跡・七重塔跡などが見られる。 武蔵国分寺は東山道武蔵路の西側に尼寺、東側に僧寺が建設された。

ここまで来たのでもう少し寄り道を。 向かった先は「弁天堂と真姿の池」(右)。この池には次の様な伝説が。
絶世の美女であった玉造小町が病に侵され美貌が台無しに。 そこで国分寺で願掛けしたところ、「池で身を清めよ」と霊示を受け、その通りにするとたちどころに病は癒え元の美貌を取り戻したという。現在は弁財天が祀られている。

真姿の池からお鷹の道を通って「国分寺」(左)に寄り道を。武蔵国分寺は「分倍河原の戦い」で焼失したが後に新田義貞の寄進により薬師堂が再建されたもので、武蔵国分寺の後継寺院。
境内が万葉植物園となっており それぞれの草花に例歌を記した解説板が付けられているので、これらを読むのが楽しい。

左手山腹の現・薬師堂は宝暦年間(1751~63)に現在地へ再建、「仁王門」(右)も宝暦年間の建立、門の左右には享保3年(1718)の仁王像が安置されている。

そろそろ鎌倉街道に戻らなけらばならないが、もう一か所寄り道を。

国分寺跡の西側にほんの僅かな区間だが「東山道武蔵路跡」(左)が保存されている。
東山道の本道から分かれた支路で上野国から武蔵国府へ通じていたことから東山道武蔵路と呼んでいた。

「説明板のイラスト」(右)によると現・武蔵路跡の高台から山を下り、武蔵国分寺の僧寺と尼寺の間を直線的に通過して武蔵国府へ通じていたことが伺える。

残念ながら雨が強くなってきたのでJR中央線の西国分寺駅まで歩き今回の旅を終了とした。

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