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鎌倉街道上道の旅、4回目は相州瀬谷の若宮八幡宮から。 若宮八幡宮を出てしばらく歩くと東京都町田市。
鶴間、南町田、金森を通って原町田に入りJR横浜線を横断。その先で浜街道(絹の道)を横切り小田急線の踏切りを
渡ったら鶴川街道を北上し本町田の菅原神社まで。
菅原神社は年一度の例大祭の日。大変な賑わいで良い時に来たものだ。
今回歩いたコースには神社が大変多く、さながら神社巡りのような旅であった。
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若宮八幡宮は甲斐武田氏の一族であった岩崎丹後守が相州瀬谷に土着。室町時代末期の永禄年間(1558~69)に創建したとされている。
神社を出て瀬谷柏尾道路に戻り東名高速をくぐって数分、真っ赤な鳥居の小さな神社は「箭弓稲荷」(右)。
かつてここには荒れ果てた小さな祠があったそうだ。隣の「十割そば古賀」のスタッフが見かねて材料を持ち寄り修復。その上で埼玉・東松山の箭弓(やきゅう)稲荷神社から眷属札を拝借し収めているのだという。 |
瀬谷柏尾道路の途中から脇道に入り十分ほど歩くと国道246号バイパスにぶつかりその先は消滅。 |
側道を進み五貫目町交差点まで来ると安政3年(1856)建立の「五貫目道祖神」(左)がフェンスの前に。元々はもう少し西の境川手前にあったが国道バイパスの建設に伴い現在地に移転。五貫目は地名。
交差点を横断し北に500mほど歩いた先の寺院は天正年間(1573~92)に開創されたとされる「圓成寺(えんじょうじ)」(右)。 室町時代に製作されたという聖徳太子像が写真で見られる。16歳の聖徳太子だとか。旧1万円札とは随分違うな~ |
ちょっと戻り路地を入った先の歩道橋で国道246号を横断。この先しばらくは新興住宅地の中を通って今度は国道16号バイパスを横断。 |
国道を渡った先の「熊野神社」(左)は熊野三山神社を勧請したものだが創建年代は不詳。享保11年(1726)に本殿を建立した記録がある。現在の社殿は昭和46年(1971)の再建。
熊野神社の200mほど先に境外末社の「八坂神社」(右)が鎮座。鳥居横に庚申塔が2基。銘が読み取れないので造立年は不明だが なんとも味がある庚申塔だ。 |
5分ほど歩き信号のある交差点まで来たらちょっと寄り道を。向かった先は下鶴間の「公所(ぐぞ)浅間神社」(左)。
創立年代は不詳だが源頼朝が創建したと伝えられている。文亀年間(1501~03)に編纂された文亀神名録に相模国81社の巡拝所の一つと記載され鶴間郷の総鎮守であったようだ。
参道途中にある末社の「秋葉神社と古峯(ふるみね)神社」(右)は共に火防神(ひぶせのかみ)。西と東の火防神が一つの社に同居しているとは珍しい。 |
交差点まで戻り更に北上、常楽寺前を左折し都道56号を横断。 この先で旧道は消滅するが近い道を選び西田杉山神社前へ。 |
神社前の道が旧道で神社の入口に元禄11年(1698)の「庚申塔」(左)が1基。
その後ろが「西田杉山神社」(右)。創建年代は不詳だが高木伊勢守の居城の鬼門に当たる場所に守護神として創建されたとされる。従って神社の向きは西田集落方向ではなく城方向に向いている。
鳥居脇に幹周5.7mという銀杏の大木が。説明板に「このイチョウは南北朝時代、高木伊勢守の城中より無事長久を朝夕拝礼され・・・」とある。 ということはこの銀杏の樹齢は700年以上、凄い。 |
杉山神社横を通って都道56号に合流、4~5分歩いた先の右手階段上に鎮座しているのは「金森天満宮」(左)。小さな神社だが ちょっと威厳を感じる。
神社横の石碑は「菅原道真歌碑」(右)。
こち吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春をわすらな 菅原道真 |
都道をしばらく歩いたら住宅地の中の細い道(ここも都道56号)に入って行く。 |
細道に入って数分歩いた先の神社は「金森杉山神社」(左)。 天和3年(1683)、高木伊勢守一族が下屋敷内に奉斎し武運長久を祈願したのが始まりとされている。
参道に多数の「石塔・石仏群」(右)が。庚申塔が多いが天文元年(1532)造立の光専神や貞享4年(1687)造立の日待塔などこの辺ではかなり珍しい。変わったところでは日露戦争戦勝記念艦砲模擬弾も。 |
次に向かったのは「町田天満宮」(左)。都道の先の住宅地の中の道を左へ曲がったり右へ曲がったりとちょっと分かりずらい。町田天満宮は本町田菅原神社、南大谷天神社とともに町田三天神と呼ばれ、天正年間(1573~91)、この地を知行していた北条氏輝によって古い祠のあったこの地に菅原道真公をお祀りしたと推察されている。
この神社には狛犬3対と共に天満宮でよく見かける「撫で牛」(右)が2頭も。 |
町田天満宮を出たら参宮橋でJR横浜線を渡り左へ曲がって行く。バス通りの途中から右へ入る細い道があるがこれが鎌倉街道旧道。
一部消滅している部分もあるが この先でかつて歩いた浜街道(絹の道)を横切って旧道が続いている。 |
原町田中央通り交差点まできたらちょっと寄り道を。浜街道を東に数分歩いた先の浄運寺に「武藤塚」(左)と刻まれた夜盗塚なるものがある。武藤家を襲った夜盗の話だが長い話になるのでこちらを。
交差点まで戻ったら浜街道の右側の道に入り小田急線踏切を渡って数分、十字路際にかなり大きな「馬頭観音」(右)がある。うっかりと銘を見損なってしまったのが残念。
旧道はこの辺りから町田第一小学校の校庭を通り菅原神社裏に続いていたようだが今は消滅。ここは鶴川街道を歩いていくことに。
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かれこれ20分ほど歩いただろうか。左手に鎮守の杜が見えてきたがここは「本町田菅原神社」(左)。
鳥居の脇に屋台が並んでいるが今日は年に一度の例大祭の日。階段を上った目の前が「社殿」(右)。ところが祭りだというのに人が少ない。と思ったら神楽殿で奉納の舞が始まっていたのです。
菅原神社は町田三天神のうちの一社。 室町時代に天神像がこの地に奉安されたが、寛永7年(1630)に大沢玄藩によって新たな天神像を奉安し菅原神社を建立。以来、本町田の鎮守となっている。 |
菅原神社があるこの地は 井手の澤古戦場跡。南北朝時代、足利尊氏の弟直義と信州から南下した北条時行が激しい戦を行った場所。神社の裏にそのことを示す「井手の澤碑」(左)が建てられている。
都道側から神社境内に入り左側の女坂を上ると真新しい祠の「藤木稲荷社」(右)が鎮座。元々は神社対面の稲荷坂を下った所にあったのだが故有って平成29年(2017)に当地へ遷座。 |
今回の旅は神社巡りのようになってしまったがこれも一興というもの。菅原神社前にバス停があるので今回の旅はここまで。 |
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