(1) 鶴岡八幡宮から寺分(てらぶん)まで |
街道地図 |
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鎌倉街道上道の旅、スタートは鶴岡八幡宮参道を横切る流鏑馬道からだがまずは平成の大改修が終わった
段蔓(左)を通って鶴岡八幡宮へ。
流鏑馬道の西鳥居を出たら県道を左へ曲がり小町通りへ入って行く。 すぐに右へ曲がり古刹を訪ねながら
鎌倉七切通しの一つ 粧(けわい)坂切通し を上り、鎌倉山の「山の上通り」から梶原、寺分を通って柏尾川手前
までの旅とした。
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三の鳥居を潜ると正面に舞殿、その上に「鶴岡八幡宮本宮」(左)が見える。源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請し創建したのが康平6年(1063)。源頼朝が治承4年(1180)に現在地へ移し鎌倉武士の守護神とした。
流鏑馬道に入ったら鎌倉街道上道の旅 スタートだ。
西鳥居に向かう途中のトイレ前に「よじべえ石」(左)なる大石が横たわっている。「関東大震災の時に海底が隆起して現れた石」 ということだが説明板が無いので詳しいことは分からない。 よじべえ石の詳しいことはこちらを |
その入口にあったのは鎌倉十井の一つ「鉄(くろがね)の井」(左)。かつて、扇ケ谷に所在した新清水寺に蔵されていたとされる鉄観音像の頭部がこの井戸から掘り出されたことからこの名が付いたという。
小町通りへ入ったらすぐに右へ曲り数分歩くと右奥の崖下にあったのは「岩窟不動尊」(右)。
鎌倉で一番古い不動尊で吾妻鏡にも記載があるという。 かつては崖下に掘られた窟堂に祀られていたが崩落の危険があるため現在の祠に移され、庚申塔や五輪塔も共に傍らに移されている。 |
JR横須賀線の踏切りを渡るとすぐ左が「八坂神社」(左)。
建久3年(1192)、相馬次郎師常が邸内に勧請して崇敬したのが始まりの神社で、後に現在地へ遷座。このため相馬天王とも呼ばれていた。
八坂神社の隣に見える門は「寿福寺外門」(右)。寿福寺は源頼朝が没した翌年、北条政子が建立した寺院で鎌倉幕府三代将軍の源実朝も再三参詣していた鎌倉五山第三位の寺。 |
外門を入ると彼方の山門まで敷石道が続くが木漏れ日の中の静寂がなんとも心地よい。
山門手前から左に曲がり墓地に入ると崖下に「やぐら」が並んでいるが奥まった所のやぐらに「北条政子の墓」(右)。その隣の やぐらは 源実朝の墓で共に五輪塔が建てられている。
寿福寺の墓地には大佛次郎、高浜虚子、など多くの文人・俳人の墓も。 |
寿福寺の隣は鎌倉で唯一の尼寺・英勝寺。太田道灌の子孫で徳川家康に仕えたお梶の方(英勝院)が道灌の屋敷跡に寛永13年(1636)に建立。 |
境内には創建当時から現存する建物が多く、そのほとんどが国指定の重要文化財。
「総門」(左)は英勝院の一周忌にあたる寛永20年(1643)に水戸光圀の兄・徳川頼房が建立。関東大震災で倒壊したが保存されていた部材で平成23年(2011)に再建。国の重要文化財。
総門前の「仏殿」(右)は寛永13年(1636)に建立。本尊の阿弥陀如来立像は徳川三代将軍家光の寄進によるもので運慶の作と伝わっている。その他に鐘楼、祠堂、祠堂門(唐門)も重要文化財。 |
英勝寺先の崖下にある やぐら に 層塔が納められているが これは十六夜日記の著者である「阿仏尼の墓」(左)。 所領を巡ってのトラブルで京都を旅立った尼は鎌倉で亡くなった。線路を挟んだ向こう側の浄光明寺には阿仏尼の息子である冷泉為相のものと伝わる宝篋印塔がある。
すぐ先の鳥居奥は「隠里稲荷」(右)。説明板によると「源頼朝が伊豆の 蛭が小島 で病に伏した際、夢に現れた白髭の老人が隠里稲荷の化身であった」そうだ。 |
この先は仮粧坂切通しを通って鎌倉山に向かうのだが、その前にJR横須賀線のガード下を通ってちょっと寄り道を。 |
ガードの先に見えたのは「岩船地蔵堂」(左)。源頼朝の娘・大姫の念持仏であった地蔵尊が祀られている。木曽義仲の子・義高に恋した大姫であったが義仲・儀高ともに頼朝に討たれた悲劇の姫であった。
数分歩いた先の「薬王寺」(右)は永仁元年(1293)に日蓮宗に改宗したという歴史ある寺。
乱行を理由に高崎に幽閉され非業の最期を遂げた駿河大納言徳川忠長(三代将軍家光の弟)の奥方・松孝院殿(織田信長の孫)の寄進により立派な諸堂を造営したという歴史を持つ。 |
境内右手の石塔は「徳川忠長供養塔」(左)。この供養塔も忠長の妻・松孝院殿が建立したもの。
裏山の墓地にある高さ3mほどのの宝篋印塔は松山城主・蒲生忠知公(家康の外孫)の「正室・松壽院と息女・梅嶺院の墓」(右)。
これらのことから薬王寺は三葉葵の寺紋が許され一般市民は埋骨できない高い格式の寺であった。 |
ここまで来たのでもう少し寄り道を。
薬王寺を出てさらに奥へ向かうと上り坂の切り通しとなるが、この切り通しは扇ガ谷と山ノ内を結ぶ「亀ヶ谷切り通し」(左)。
建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内地区と鎌倉市中を結ぶ重要な道路であった。
ちょっと鄙びた感じもするが今も生活道路として使われている。 |
街道に戻ったらもう一か所寄り道を。向かった先は鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命により建長5年(1253)に建立された海蔵寺。
山裾に佇む静かな寺で四季それぞれに咲き乱れる花々に囲まれていることから花寺とも。 |
参道入り口の井戸は鎌倉十井の一つ「底脱(そこぬけ)の井」(左)。
千代能がいただく桶の底脱けて 水たまらねば月もやどらず
安達泰盛の娘・千代能が水を汲んだところ桶の底が抜けて思わず詠んだという。
境内の南隅に「十六の井」(右)なるちょっとミステリアスな井戸が。
岩窟の中に十六の井戸があり、窟の中央には観音菩薩が祀られている。寺が発行するパンフレットを読んだが今一よくわからない井戸である。 |
その途中にあったのが「景清土牢跡」(左)。ほとんど読み取れない石塔が立っている後ろの窟の中に「水鑑景清大居士」と刻まれた墓石が建てられている。壇ノ浦で滅ぼされた平家の家人・平景清が鎌倉に潜入し頼朝の暗殺を企てたが捕えられこの土牢に押し込められ絶命したという。
その先4~5分、住宅の途切れた先から鎌倉七切通しの一つ「仮粧坂切通し」(右)の上り坂。ここは鎌倉から武蔵方面に抜ける交通の要衝。元弘3年(1333)の新田義貞鎌倉攻めでは戦場となった場所。 |
仮粧坂を上ったら源氏山公園に寄り道を。広々とした公園の真ん中に鎮座しているのは「源頼朝像」(左)。
ここは後三年の役に出陣する源義家(八幡太郎)が山頂に白旗を建て戦勝祈願を行ったと伝えられる場所。 その源氏山に頼朝鎌倉入り八百年を記念して建てられたのがこの像。
元来た道を戻り1~2分、後醍醐天皇の倒幕計画に参加した罪で処刑された「日野俊基の墓」(右)がある。正中の変(正中元年/1324)で捕えられ許されたが元弘の乱(1331)で再び捕えられここ葛原岡で斬首となった。 |
その先の突き当りは「葛原岡神社」(左)。
日野俊基最期の地である葛原岡に俊基卿を祭神として祀り、明治20年(1887)に創建したという比較的歴史が浅い。
本殿脇に 「日野俊基終焉の地」(右 )に「俊基卿終焉の地」と刻まれた石碑が据えられている。捕えられ鎌倉送りとなった俊基だが仮粧坂を通ることなくこの地で斬首となった。
鳥居脇の石碑は鎌倉幕府の評定衆を務め海蔵寺の七堂伽藍(創建当時)を建立した藤原仲能なる人物の墓碑。 |
葛原岡神社から少し戻り日野俊基墓地脇を下って行くと鎌倉山の高級住宅地内を通る「山の上通り」(左)。しばらくは 山の上通り を歩くのだが山の上 と言うだけあってここから何本もの下り坂が。その中の一本に「S字坂」(右)と呼ぶ下り坂があるが地図を見ると見事なS字。他にも 「梅見坂」 「日当たり坂」 「西の坂」など。
ほどなく深沢中学校の前を通るが、ここに「寺分(てらぶん)大工谷」という地名の由来が記されている。それによると「鎌倉時代、この付近に関東十刹の一つ・大慶寺などを修復した工匠が住んでいた」のだそうだ。 |
街道は深沢中学校の先で大仏切通しから上ってきた道にぶつかり右へ曲がって行くのだが ちょっと寄り道を。 |
向かった先は「御霊神社」(左)。 由緒を読むと「祭神は源頼義と奥州平定に向かい大勝した鎌倉権五郎影正で、建久元年(1190)に梶原景時が一宇を建て影正の霊を祀り御霊社と尊称した」とある。
その「梶原景時の供養塔」(右)が隣の深沢小学校裏手の やぐら の中に。頼朝の信頼を得て大きな力を持っていた景時だが頼朝の死後は一族追放となり駿河国清見ケ関近くで討ち取られてしまう。
コメント:梶原景時の供養塔を見る場合は小学校の受付に申し出て 許可を得る必要がある。 |
街道に戻り道なりに東光寺前を通り、駒形神社参道前を通り過ぎると見えるのは茅葺の「大慶寺山門」(左)。
創建は弘安年間(1278~87)と伝わり関東十刹に列せられる大寺院で広大な寺域を持っていた。この辺りの地名を「寺分(てらぶん)」というが大慶寺の寺域を大慶寺分と呼んでいた。
数分歩いた先に「石塔が2基」(右)。左は嘉永6年(1853)造立の馬頭観音、右は風化が進んで表面はほぼ平。全く読み取れない。
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さらに1~2分歩くと湘南モノレールが頭上を横切っていくが、ここでちょっと寄り道を。 |
モノレールに沿って右へ100mほど歩くと「洲崎古戦場跡碑」(左)が建てられている。元弘3年(1333)、鎌倉攻めの新田義貞軍と守る北条軍が激しい戦を行った場所で一日に60回以上の戦闘があったという。
街道に戻ったらもう一か所寄り道を。深沢多目的広場の中に「泣き塔」(右)と呼ばれる宝篋印塔がある。
元弘の乱で亡くなった兵士の供養塔と伝わっているが建立されたのは文和5年(1356)。名前の由来は諸説あるが「石塔を近隣の青蓮寺に移したところ夜な夜なすすり泣く声が聞こえた」 という。 |
その途中の石塔が集められた場所に「双体道祖神」(左)が。このような夫婦道祖神を見ると、なぜかほっこりと。
その先数分、突き当りの泉光院は寛永16年(1639)の創建というが鎌倉で江戸時代創建の寺は珍しい。
境内の一角にある地蔵堂内に「いぼとり地蔵」(右)が鎮座しているがお地蔵さんの両脇は弘法さんという、ちょっと珍しい取り合わせ。 |
泉光院に沿って住宅地を進むと県道に突き当りその先は柏尾川。ここは右へ曲がって町屋橋を渡って行く予定であったが 突然、ゴロゴロ ドッカンときて次は激しい雨。今日はここまで。 |
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