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鎌倉街道上道

 (1)鶴岡八幡宮から寺分   (2)寺分から下飯田  (3)下飯田から上瀬谷  (4)上瀬谷から本町田  (5)本町田から関戸  (6)関戸から西国分寺  (7)西国分寺から所沢   (8)所沢から狭山  (9)狭山から西大家 
     (10)西大家から鳩山町  (11)鳩山町から嵐山町  (12)嵐山町から能増  (13)能増から小前田  (14)小前田から児玉  (15)児玉から神流川   (16)神流川から西山名駅  (17)西山名駅から高崎城址

(9) 狭山から西大家まで.         街道地図

鎌倉街道上道の旅、9回目は狭山の奥州道交差点先の信濃坂から。

信濃坂を上り智光山公園の横を通り、千人同心街道 と交わる 鎌倉街道交差点を過ぎると高萩へと入って行く。
JR川越線の鎌倉街道踏切りを横断した先の旧街道は旧高萩飛行場跡の中で消滅。ここは戦後の開拓時代に
造られた真っ直ぐな道を歩くことに。 東部越生線の西大塚駅近くまで来ると旧道が復活する。
今回の街道歩きは長閑な田舎道が多いのだが途中の見どころは少ない。

平成29年12月7日

旅の出発は「信濃坂」(左)から。その昔は信濃へ通じていたのでそう呼ばれていた、のだそうだ。鎌倉街道上道の旅は上州高崎までだが、街道はその先の碓氷峠を越えて信州信濃へ向かっていた。

信濃坂を上り狭山工業団地の中を通って智光山公園の横を歩いていると なんと「モ~ と声を掛けられた」(右)。じっとこちらを見ている姿がなんとも可愛いね~

圏央道の下を通り、南小畔川を渡り、日高カントリーの横を通って到着した場所は「鎌倉街道交差点」(左)。
この交差点を横断していくのだが横切る道は八王子から日光へ通じる千人同心街道。かつて歩いた街道だ。

交差点を横断して5~6分歩くと緩い下り坂の切通しとなるが、ここは鎌倉街道に多い「掘割状遺構」(右)。気が遠くなるほど沢山の玉石が積まれている。

坂を下ると「突然視界が開け」(左)景色が一変。小畦川の先からうねうねと曲がった道が彼方の集落に消えていく。

小畦川手前の立派な石碑は「鎌倉街道上道碑」(右)。
傍らの説明板に「この碑の前の上道も立派に舗装され・・・より便利になるのは時代の趨勢であるが、この地の古老は彼らが少年の頃、まだ十分古道の名残りを留めていた上道を偲んで今でもこの道を鎌倉街道と呼んでいる」 とある。残念ながら旧道は小畦川の先から消滅。

うねうねと曲がった道の先から高萩の集落に入ったら駒形神社に寄り道を。

歩いている道から鎮守の森が見えるのだが入り口が見当たらない。かなり迂回してやっと「駒形神社の参道」(左)に。
歴史のある神社で社記によれば高麗王若光によって霊亀2年(716)に創建されたと伝えられている。駒形は高麗方に通じるとも云われ高句麗人と深いかかわりがあったのだとか。

日高市指定文化財の「本殿」(右)が素晴らしい。 江戸時代末期の作とされているが向拝柱には登り龍・下り龍が彫られ周囲4面の彫刻も見事。

元の道に戻ったらもう一か所寄り道を。向かった先は「霞野神社」(左)。創建年代は不詳だが明治43年(1910)に女影村と中沢村の12社を合祀して霞野神社に。

神社周辺は知る人ぞ知る女影(おなかげ)原古戦場跡。建武2年(1335)、 執権北条高時の遺児・時行が鎌倉幕府復興をかけて信濃で挙兵。鎌倉に向かった時行軍が女影原で足利尊氏の弟義直軍と激しい戦を行った場所。
神社脇の石碑は「女影原古戦場跡碑」(右)。

霞野神社から戻り下小畔川沿いを進むと天神橋碑があるが旧道はこの手前辺りに来ていたようだ。

天神橋を渡り上流側に70~80mほど戻ると旧道に復帰。
旧道を道なりに進むとJR川越線の踏切りとなるが この踏切り名が「鎌倉街道踏切」(左)。街道名を付けてくれるとは嬉しいね~

踏切りを渡った右手、墓地前の祠の中に寛政7年(1795)造立の「廻国供養塔」(右)が収められている。祠の右側には板碑があるのだが傷みが激しく文字を読み取ることはできない。

踏切りを渡って4~5分、別所公会堂の脇に「地蔵尊と馬頭観音」(左)が祀られている。
久しぶりに見た馬頭観音は三面六臂、地蔵尊のお顔は傷みが激しい。

公会堂の先で渡る川は小畦川。 今日は「小畦川」を何回も渡ったような。最初に渡ったのが「南小畦川 」次が「小畦川」 その次は 「下小畔川」 、そして今渡った川が小畦川」。 どうなっているんだろうね~

小畦川を渡った先からは「遥か彼方まで真っ直ぐな道」(右)。地図を見ると碁盤の目のように整然と道路が造られているが、ここは旧陸軍高萩飛行場跡。

直線道路を十数分歩くと「旭ヶ丘神社」(左)がある。戦後、高萩開拓団が組織され飛行場跡に開拓農民が入植したが彼らの心の拠り所として建立されたのが旭ヶ丘神社であった。

鳥居の傍らにある石碑は「高萩飛行場跡碑と開拓碑」(右)。
碑文に「昭和13年(1938)に陸軍航空士官学校の高萩分教場として使用開始された」とある。
陸軍にも神風特攻隊があったということなので、ここで訓練を受け戦地で命を落とした若者が沢山いたのだろう。

ほどなく旧道に復帰するが、東武越生線西大家駅の少し手前に設置されている「鎌倉街道上道説明板」(左)に「鎌倉街道という名称は江戸時代になってから使われはじめたと考えられ、古くは信濃街道、奥州道、大道(だいどう)などと呼ばれていた」とある。

越生線の踏切りを渡ったら「国渭池祇(くにいちぎ)神社」(右)に寄り道を。 安永6年(1777)に始まったと伝わる 奉納獅子舞 は坂戸市指定の無形文化財。境内末社の八幡神社や秋葉神社も立派。
すぐそばに東武越生線の西大家駅があったので旅はここまでとした。

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