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鎌倉街道上道

 (1)鶴岡八幡宮から寺分   (2)寺分から下飯田  (3)下飯田から上瀬谷  (4)上瀬谷から本町田  (5)本町田から関戸  (6)関戸から西国分寺  (7)西国分寺から所沢   (8)所沢から狭山  (9)狭山から西大家 
     (10)西大家から鳩山町  (11)鳩山町から嵐山町  (12)嵐山町から能増  (13)能増から小前田  (14)小前田から児玉  (15)児玉から神流川   (16)神流川から西山名駅  (17)西山名駅から高崎城址

(15) 児玉から神流川まで     街道地図

今回の旅は児玉から神川町の北端を流れる神流川まで。

前回終了した龍體稲荷神社横から出発。玉蓮寺、東石清水神社に寄り道したあと八高線沿いの農道を歩き、
塙保己一旧宅に寄り道して神川町に。神川町から先の旧道ルートは2ルートあり、いずれも神流川を渡って
いくが西側のルートはほぼ消滅状態。北側のルートは出雲神社の前を通って神流川の土手に向かっている。
神流川を渡ると上州藤岡に入るのだが川を渡るには2kmほど下流の橋を渡るしかない。ちょっと遠すぎる
ので今回は神流川の堤防までとした。

平成30年3月2日

龍體稲荷神社の先から旧道の細い道を北上するのだが玉蓮寺に寄り道を。寺伝によると日蓮上人が文永8年(1271)に佐渡流罪の途中と、赦免で鎌倉へ帰る文永11年(1274)に児玉六郎時国の館に宿泊。その日蓮上人が館に上がる際、御足を洗ったとされる井戸が参道右手の「日蓮上人御洗足之井戸」(左)。
玉蓮寺は日蓮没後、時国が館を一寺としたのが始まりと伝わっている。

本堂裏手の墓地にある高さ2m余に達する大きな「釈迦一尊種子板碑」(右)は嘉元2年(1304)に造立されたもので児玉六郎時国供養の伝承が。

玉蓮寺隣の「東石清水八幡神社」(左)は平安時代末期、源義家・頼義父子が奥州征伐の途中に立ち寄って戦勝を祈願。 帰路、再び立寄って社殿を建立し京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まりという。

現在の「社殿」(左)は享保7年(1722)に再建されたもので本殿には素晴らしい彫刻が施されているそうだ。「随身門(右)は宝暦6年(1756)に崇敬者達によって建立されたもの。社殿前の鳥居は地方では珍しい青銅製。上州佐野の鋳物師に造らせたもの。
境内左手の池に、なんと、二見ヶ浦の夫婦岩があるではないか。

境内北西隅に「高札場」(左)が建てられている。 元々は連雀町と本児玉(本町)の間に在ったが明治7年(1874)に高札の廃止が決められたあと現在地に移転。修復されてはいるが復元ではないことが素晴らしい。本庄市指定の文化財。

街道に戻り数分歩くと屋根の上に高窓が乗った建物が見えるが、ここは「競進社模範蚕室」(右)。
養蚕技術の改良に一生をかけた木村九蔵なる人物が「一派温暖育」と称する蚕育法を考案。この実践のために建てたもので全国に広められ養蚕業の発展に大きく貢献した産業構造遺構。

旧道は八高線で分断されその先は消滅。国道452号に出て児玉スカイボール横を入り旧道に復帰。

旧道に入って数分歩くと女堀川に架かる「雀の宮橋」(左)という小さな橋がある。忘れ去られたような橋だが この橋が無かったら大きく迂回しなければならない。
橋を渡った先の旧道は残念ながら耕地整理で消滅。ここは八高線沿いの農道をてくてくと。

十数分歩いたら右へ曲がると旧道に復帰できる。右へ曲がってすぐの所に「石塔3基」(右)が道路際に。背の高い碑は塙保己一旧宅案内碑、左の2基は道標と供養塔。道標には「右 八日市*** 左 児玉町」と刻まれているようだが。


旧道に入る前に「塙保己一旧宅」(左)に寄り道を。茅葺の古民家は江戸時代の国学者・塙保己一が生まれ幼少を過ごした家。保己一の誕生は延享3年(1748)であるからこの建物は270年の歴史を持つ。

近くの塙保己一公園に「保己一の墓所」(右)がある。文政4年(1821)に亡くなり四谷の安楽寺に埋葬されたが明治19年(1886)に実家である荻野家の墓地に墓碑を建立。平成24年(2012)に現在地へ移転し整備が行われた。

墓所隣の龍清寺に「飛龍の榧(かや)(左)と呼ばれる凄い木がある。今にも倒れそうだが倒れない。樹齢200~300年だそうだが根本から2~3mのところから曲がっているという何とも不思議な木だ。

飛龍の榧と不動堂の間に「芭蕉句碑」(右)が。
         若葉して 御めの雫 ぬぐはばや  芭蕉

旧道に戻り八高線の踏切りを渡って神川町植竹の集落に入ったら寄り道を。

旧道から数分歩いた奥の「姫塚」(左)と呼ばれる小さな古墳には悲しい伝説が。
永禄年間、八幡山城が北条氏に攻められ一族が上野に逃げのびる途中、病弱な姫が短い生涯を閉じてしまった。このため近くにあった塚に埋葬。いつの頃からかその塚が姫塚と呼ばれるようになったという。
塚の南側に五輪塔などの石塔があるが、姫塚との関係は不明。

旧道に戻り畑の中の道を進むと神川町役場の前。さらに10分ほど歩くと「彼方まで広がる田園風景」(右)。鎌倉街道はこの先から2ルートに分かれていた。西側は消滅状態だが北側は田んぼの中を通り肥土集落を抜けて神流川へ。

中肥土集落に「出雲神社」(左)というちょっと魅力的な名前の神社があるのだが由緒や説明板が無いため詳細が分からない。鎌倉街道の旧道はこの前を通っている。

出雲神社の左手向うに映画セットのような長屋門が見えるが ここは「高橋家屋敷跡」(右)。記念碑の説明文によると「高橋家は徳川第四代将軍家綱公の時代から300年続く家系で、代々名主を務めた・・・・神川町に寄贈した次第」とある。今は高橋記念公園として整備されており、きれいなトイレも用意されているので休憩に最適。

街道の十字路まで戻ると その先の道路際に如意輪観音、道祖神、寛政12年(1800)の庚申塔など7基の「石塔群」(左)が見える。中に「八意天思金命」と刻まれた石塔があるが「八意思兼命」のことだろうか。

十字路を越えた先に「御堂」と呼ばれる建物があるがその前に如意輪観音、地蔵尊や卵塔、宝篋印塔など「多数の石仏や石塔」(右)が。手入れされてない荒れた感じが残念。

御堂の横に石柱が転がっているが よく見ると文字が刻んであるではないか。ということは「道標」(左)。 「右 植竹八日市ヲ経テ児玉村方面 左 神流川ヲ経テ**** 」と読める。

御堂の先数分歩くと「神流川」(右)の土手にぶつかる。鎌倉街道は川を渡って上州藤岡に入るのだが今は渡るすべが無い。2kmほど下流に藤武橋があるがちょっと遠すぎる。(写真に見える橋はJR八高線の鉄橋)

今回の旅はここまでとしJR八高線の丹荘駅まで戻り帰路に。次回からは上州の旅となる。

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