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(1)鶴岡八幡宮から寺分
(2)寺分から下飯田
(
3)下飯田から上瀬谷
(4)上瀬谷から本町田
(5)本町田から関戸
(6)関戸から西国分寺
(7)西国分寺から所沢
(8)所沢から狭山
(
9)狭山から西大家
(10)西大家から鳩山町
(11)鳩山町から嵐山町
(12)嵐山町から能増
(13)能増から小前田
(14)小前田から児玉
(15)児玉から神流川
(16)神流川から西山名駅
(17)西山名駅から高崎城址
(2) 寺分から下飯田・左馬神社まで
街道地図
鎌倉街道上道の旅、2回目は寺分の旧道を通り柏尾川に架かる
「町屋橋」
(左)を渡るところから。
町屋橋を渡ったら東海道線を越え村岡城があった高台へと上って行く。その先は旧道が消滅している
場所もあるが近い道を選んで旧東海道の鉄砲宿
(遊行寺坂の頂上付近)
へと抜けていく。
さらに国道1号
バイパス
を横断し東俣野町を通って下飯田町の左馬神社までが今回のコース。
国道1号を横断した先からは畑が広がる長閑な田舎道。春や秋には景色を眺めながらノンビリ歩く事が
できるだろう。
平成29年7月31日
町屋橋を渡り左へ曲がると柏尾川で途切れた旧道の延長線上に
「土道の旧道」
(左)が残されている。
工場と工場の間にうま~く残ったようだ。残された旧道の突き当りは東海道線で寸断。ここは左へ曲がって東海道線下のトンネルを潜り工場脇を通っていく。
旧道に戻る途中に見た石碑は
小塚洞記念碑」
(右)。 昭和3年
(1928)
、山向うに住む農民がこちら側の農地に来るための不便さ解消にトンネルを掘った時の記念碑。 トンネルは今は無い。
この先は長い上り坂。この辺りはかつては海だったようで、どこを掘っても貝殻が出てくることから
「貝殻坂」
(左)。
貝殻坂途中の村岡城址公園は平安時代中期、平将門の伯父である平良文
(村岡五郎)
の居城であったと伝わる。公園奥の石碑は
「村
岡城址碑」
(右)。
貝殻坂を上りきった高台に鎮座しているのは
「渡内日枝神社」
(右)。元々は平良文が延長年間
(923~940)
に京都より日吉山王大権現を勧請し宅内守護神としたのが始まり。現在は渡内地区の鎮守。
階段下に
「8基の石仏・石塔」
(右)が並んでいるが一番左の庚申塔は道標を兼ねており、刻まれている道筋は 「左かま具ら道 右 観世音道」 。この中に文政4年
(1682)
と文政10年
(1827)
の
双体道祖神
が。
双体道祖神といえば信州が有名だが この辺りにも結構多い。
ここでちょっと寄り道を。4~5分歩いた先の
「二傳寺」
(左)は戦国時代の永正2年
(1505)
に玉縄城主・北条氏時によって開山した寺で玉縄城の出先砦の役割を担っていた。
本堂横に5基の宝篋印塔が並んでいるが これは玉縄城を守護した
「松平正次とその一族の墓」
(左)。
玉縄城廃城後は正次の子どもたちが玉縄藩としてこの地を治めたが後に上総大滝藩に移封となり玉縄藩は廃藩。
日枝神社前まで戻ったら十字路を左へ入り道なりに5~6分歩くと県道302号に合流。左へ曲がって行く。
数分先の右手、擁壁の上に見える
「慈眼寺」
(左)は天文2年
(1533)
に玉縄城の三代城主であった北条左衛門大夫綱成が開創したと伝えられている。
山門脇の石塔は
「平 氏満の墓」
(右)。武士の様な名前だが藤沢の旅籠の隠居で、千種集という和歌集を編み遊行上人に献上した人物。石塔に刻まれた文字は 「平氏満之墓」。
山門を入るとビックリするような大木が。
説明板に
「混生樹(寄り木)」
(左)とあり、モチノキ4株、タブノキ3株、スダジイ1株の3種類が根本でくっついて成長した寄り木で、樹齢は300年以上とか。
本堂の右手に小さな
(といっても高さ1m)
の
「梵鐘」
(右)が吊るされているが、これは上州藤岡の住人が鋳造し江島寺
(廃寺)
に寄進したもの。明和8年
(1771)
、藤沢宿の住人がこれを買い受け慈眼寺に寄進。
慈眼寺の先は宅地開発などの影響で旧道が消滅状態。旧道に近い道として柄沢保育園入口交差点を右に入っていく。
5~6分歩いた先の
「柄澤神社」
(左)は創建年代不詳だが由緒に 「建久4年
(1193)
、狩りに行く途中の源頼朝が参拝しており、それ以降は鎌倉武士の崇敬極めて篤かった」 とある。
神社の境内前に多数の
庚申塔など
が祀られているが これらは道路整備などで行き場がなくなったものを集めたのだろう。
神社先で左に曲がり数分歩いたら小さな橋を渡るのだが橋の手前にも
「双体道祖神」
(右)が。 よく見ると男女で背の高さがかなり違うではないか。これは珍しい。
ほどなく
「旧道」
(左)に復帰できるがここは半端でない急坂。旅人泣かせの坂だ。だが この急坂には坂名が無い。坂を上りきって数分歩くと旧東海道にぶつかるが、この辺りの地名が鉄砲宿。宿場があったわけではないが
こんな伝説
が。
右に曲がり数分、遊歩道際の祠の中に
双体道祖神
が。
その先で国道1号藤沢バイパスを歩道橋で横断。100mほど歩いた交差点向うの覆堂の中は
「石仏群」
(右)。
最も古いのは最右の阿弥陀如来で元禄2年
(1689)
、その他に庚申塔、地神塔なども。
石仏群の横を通ってかれこれ20分、畑の中の長閑な道の十字路向う側に見える鳥居は
「八坂神社の鳥居」
(左)。
鳥居手前の「鎌倉街道西の道」と題された説明板に 「上の道とも言われるこの道は鎌倉と地方を結ぶ重要街道で、新田軍が鎌倉攻略の際に進撃したのもこの道であった」 とある。
鳥居の下には地神塔と3基の庚申塔が並んでいる。
「八坂神社」
(右)は鳥居脇の道を数分歩いた先。創建は享保18年
(1733)
ということだが由緒が無いので詳しいことは分からない。
この先しばらくは長閑な田舎道。石仏を見ながらのんびりと。
境内右手に庚申塔や石祠が並んでいる。
地蔵尊、庚申塔、青面金剛の3基。
龍長院参道の途中。
滝の上にお不動様が祀られている。
県道403号との交差点際の庚申塔群。
延宝3年(1675)、明和3年(1766)などの銘が読める。
鎌倉街道は県道403号を横断していくのだが ちょっと寄り道を。
県道を左に曲がって道なりに3~4分、道路際の
「俣野観音堂」
(左)に祀られているのは石橋山合戦で源頼朝を撃破した大庭影親の弟・俣野五郎景久の守護仏であった十一面観音。
鎌倉街道に戻り住宅街の中の狭い道を進むと石鳥居に突き当たるが その奥は
「俣野神社」
(右)。神社庁のHPによると「欽明天皇
(510~571)
御宇の創立と伝えられる」とある。とすると古社中の古社だが今はひっそりとしている。
街道は神社石鳥居の前を左に曲がっていくのだが鹿のいる神社があるというのでちょっと寄り道を。
狭い山道を上った先に鎮座しているのは
「相州春日神社」
(左)。
この神社の歴史は大変浅く、かつて横浜ドリームランドの建設
(昭和39年/1964)
に際して奈良・春日大社の御分霊を勧請して創建されたもの。
神社に来た目的は鹿に鹿せんべいを与えるため。
神社裏手の神鹿苑には20頭ほどの
「神鹿」
(右)がいる。 奈良公園から来た鹿が増えたのだそうだ。鹿せんべいを差し出すと何頭もの鹿が集まってくる。かわいいね~
春日神社からの帰りは神鹿苑横を下って旧道に戻ったが、その途中に年代物と真新しい物と
「2基の庚申塔」
(左)が。
新しい庚申塔の台座に「1996年復刻」とあり上部に「元禄9年
(1696)
奉納庚申供養」とある。 復刻されて次世代に引き継がれたとは幸せな庚申塔だ。
旧道に戻り数分、三叉路
(変則四叉路)
の真ん中に
「3基の庚申塔」
(右)が。銘を見ると弘化三年
(1846)
、明治満百年
(昭和43年・1968)
、安永五年
(1776)
。 明治百年とは 参った。
その先は旧道のルートがはっきりしないが境川遊水地公園の脇を通って下飯田町へ入って行く。
下飯田町の
「東泉寺天明門
(山門)
」
(左)は説明板によると天明3年(1783)に建立されたのだが、この年は浅間山が噴火した年で地震が8日間、雨天が1カ月も続き飢饉で多くの被害者が。
山門を入って左側の石塔は
「飯田五郎家義供養塔」
(右)。薬師堂には飯田五郎家義の守本尊であった薬師如来像が安置されている。五郎家義は源頼朝が兵を挙げたとき平氏側の大庭景親らと石橋山の合戦に参戦。だが源氏の再興を望んでいたことから合戦で敗れた頼朝を身を挺して守ったという。
東泉寺隣の
「琴平神社」
(左)は東泉寺の別当であったが下飯田の金毘羅様として住民の信仰を集めていた。特に漁師や船員の崇敬を得ており今でも毎月の10日には多くの参詣者が集まる。
旧道に戻り1~2分、道路際に
「双体道祖神」
(右)が祀られている。 説明板によると、ここは鎌倉上之道と呼ばれる主要古道で、旅や交通安全の石仏として信仰を集めていた。
10分ほど歩いた先の富士塚公園に
「富士塚城址碑」
(左)が建てられているが、この周辺は源頼朝から飯田郷の地頭に任じられた飯田五郎家義の館があったと伝えられている場所。
相鉄いずみの線・横浜市営地下鉄 の高架下を通った先で右に入ると鎮座しているのが左馬頭源義朝を祭神にした
「左馬神社」
(右)。平安末期に飯田五郎家義が勧請したともいわれているが定かではない。
近くに相鉄いずみ野線の「ゆめが丘駅」があるので今回の旅はここまで。
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まで
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