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鎌倉街道の旅、3回目は下飯田左馬神社から。
左馬神社を出るとしばらくは古道の雰囲気が楽しめる旧道が続くが長くはない。県道に合流したあとは長後街道を
横断して北上。途中には無量寺、飯田神社、本興寺、全通院勢至堂 など見どころが多い。
その先も中原街道、厚木街道を横断して北上していくが古道の雰囲気残る旧道や三叉路の真ん中に道祖神が
あったり、牢場坂などという物騒な名前の坂道があったりと飽きることが無い旅が続けられる。
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前回の最後に立ち寄った「下飯田左馬神社」(左)はこの周辺に多い「さば12社」の一つ。平安時代末期の武将、飯田五郎家義が勧請したと云われているが創建年代は定かではない。
参道入り口や境内に庚申塔、馬頭観音、堅窂地神塔などの石塔が多数あり なかなか趣のある神社。
左馬神社を出て旧道を5~6分、江戸時代の名主であった「美濃口家の長屋門」(右)が見える。傍らの説明板によると松尾芭蕉門下として活躍した俳人美濃口春鴻の生家でもあるようだ。 |
ほどなく県道に合流。数分歩くと長屋門があるが ここは大正時代まで製糸工場を経営していた宮崎家。それにしても立派な長屋門。 |
さらに数分歩き右に曲がって坂道を上った先に鎮座しているのは「三柱神社」(左)。由緒によると大正元年(1912)に山王社、稲荷社、天神社を寄宮して当地に社殿を建てて三柱神社としたという。
社殿横に「2基の庚申塔」(右)があるが左側の文字庚申塔は文久元年(1861)の造立で道標も兼ねており、刻まれている道筋は「此方かしを道」「此方大山道」。
右側の庚申塔は二鶏三猿で享保7年(1722)に造立されたもの。 |
長後街道を横断した先の「無量寺」(左)は豊臣秀吉が権勢を振るっていた文禄2年(1593)の創建。境内には横浜市指定古木の高さ20mという銀杏の大木が。
本堂の右手前に「名号碑と板碑」(右)が並んでいるが、名号碑の台座は「大山道」と刻まれた道標。板碑は元徳年間(1329~32)に造立されたもの。 |
無量寺を出て十数分歩くと鳥居前に「多数の石仏」(左)が並んでいる。赤い覆屋に納まっている石仏は七観音像。 左側の石塔は庚申塔や道祖神など9基。その他に地蔵尊も。
鳥居を潜った先は「飯田神社」(右)。
この神社も さば12社の一社で祭神は源義朝。伝承によると飯田五郎家義が勧請したと云われている。
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街道はこの先の いちょう団地入口交差点の一つ先の十字路を左へ曲がって行く。 |
その十字路際の石塔は この辺では珍しい元治元年(1864)造立の「甲子塔」(左)。
甲子(きのえね)の夜に禍を転じて福を授けてくれるという大黒天を祀り、飲食をしながら語り合うという風習。庚申待ちは徹夜であったが甲子待ちは 子の刻(深夜12時)までであった。
この先はいちょう団地脇の「せせらぎ緑道」(右)が旧鎌倉街道。しばらくは快適に歩けると思ったが ちょいと手入れが悪い。 |
いちょう団地前交差点まで来たら右へ曲がって寄り道を。坂道を上って1~2分歩くと本興寺の参道。 |
本興寺は鎌倉にあった寺院だが江戸幕府の弾圧に遭い万治3年(1660)に日蓮ゆかりの地であった現在地に移されたとされる。山門は寺にしては珍しい冠木門。門をくぐると広い参道の右側に題目碑が3基あり その横奥は中屋敷天満宮。
突き当りの「仁王門」(左)は天明5年(1785)の建立。「本堂」(右)は明治2年(1869)の再建だが,釈迦・日蓮・日什の一代記を掘りあげた欄間彫刻が素晴らしい。 |
街道に戻り旧道を進むと「二十三夜塔と道祖神」(左)が。二十三夜塔は文久2年(1861)の造立。
この先の新幹線のガード下を通ると羽太郷土資料館が地図に示されているが残念ながら閉館。資料館前の 江戸柳明古地図 を見ると この辺りはかなり賑わっていたことが伺える。
ほどなく三叉路。鎌倉街道は左の道だが右の坂を上っていくと「道祖神が2基」(右)。文政5年(1822)と安政3年(1856)に造立されたもの。 |
坂を上りきると鎮座していたのが「柳明(やなみょう)神社」(左)。
勧請年代は不明だが往古より柳明地区の お伊勢宮 として地域の信仰を集めていた。明治初期に廃寺となった大石寺跡に遷したもので昭和50年(1975)に柳明神社と改称。
神社裏の道路際にある「堅窂地神塔」(右)は文久元年(1861)に建立されたものだが側面に「東 神奈川道 南 大山道 北 八王子道」と刻まれており道標を兼ねている。 |
三叉路まで戻り左の道を進むと やがて「相沢川沿いの崖下道」(左)。川沿いを歩き東橋まで来たら左へ曲がり橋を渡るのが旧道のルートだが右へ曲がって寄り道を。
県道を横断し階段を上った先の「全通院勢至堂」(右)は徳善寺の境外仏堂で地元では「お勢至様(おせっさま)」と呼ばれ親しまれている。開創は寛永年間(1624~43)と云われているが現本堂は寛政9年(1797)の建立。 |
東橋まで戻り相沢川を渡って10分ほど歩くと中原街道と交差するが道路向うに宗川寺が見えるので寄り道を。 |
山門手前の説明板に瀬谷問屋場跡の事が記されている。それによると「寺の東方80mの地点に小田原北条氏が問屋場を設置。その後、徳川幕府より託され270年に渡って人馬継立を行ってきた」とある。
山門を入ると目の前に見事な銀杏の大木が2本。「夫婦銀杏」(右)と呼ばれ樹齢220年という長寿。縁結び・安産・子育て祈願の参拝者が絶えないそうだ。
宗川寺のすぐ先に真っ赤な鳥居があり階段上には真っ赤なお社が。「稲荷神社」(右)のようだが存在感がありますね~ |
稲荷神社の先で鍵の手に曲がったあと10分ほど歩くと柵で囲われ整備された中に「石仏が3基」(左)。銘を見ると庚申塔は元禄10年(1597)、地神塔は明治40年(1907)、道祖神は明治43年(1910)とある。
石仏のすぐ先の神社も「左馬神社」(右)。祭神は左馬頭源義朝。
その昔、疫病が流行すると周辺の神社を廻り厄除けをする「七サバ参り」が盛んだったという。
神社隣の西福寺は左馬神社の別当であった。
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厚木街道を横断して右へ曲がった先の「宝蔵寺」(左)は治暦2年(1066)に秀恵比丘尼が不動庵を開基したのが始まりという古刹。現本堂は天保15年(1844)に建てられたもの。
街道に戻り数分歩くと三叉路の真ん中に「石塔が2基」(右)。道祖神といわれているが風化が激しく判別できない。
しかし、車に衝突されないよう保護されているとは幸せなことだ。 |
大門小学校先の十字路際、金網フェンスの中に****権現と刻まれた石碑があるが、ここは地元の人が白山様と呼んでいる「大門大六天」(左)。石碑の文字が達筆で全く読めないのが残念。
大六天の前を右に曲がると突き当りは弘治元年(1555)創建の徳善寺。古色蒼然とした「仁王門」(右)が迎えてくれるが扁額(寺額)に「平成門」とあるではないか。 つい最近の建築だったんだ。 |
仁王門を入ると左手に「六地蔵」(左)と双体道祖神が。これは珍しい組み合わせ。
家に帰ってから拡大してみると、なんと、道祖神が錫杖を持っているではないか。ということは道祖神ではなく地蔵尊だったのです。 つまりこれも六地蔵。
本堂の左手に 「義民の碑」(右) がある。 明治政府の地租税改正に反対した農民は裁判で戦ったが その途中病没した代表の川口儀右衛門、平本平右衛門の遺功を偲び建立されたもの。 |
街道に戻り5~6分、日枝神社境内に「樹齢300年の大ケヤキ」(左)が聳えている。 写真では分かりにくいが樹高40mのケヤキを下から見上げると圧倒される凄さ。
瀬谷神明社を通り過ぎると古道の雰囲気が残る「中屋敷ケヤキ並木」(右)。「並木」と書いたが屋敷林と言った方がよいかもしれない。 途中には鎌倉古道の説明板も。 |
ケヤキ並木を抜けて数分、街道際の祠の中に「中屋敷地蔵尊」(左) がひっそりと立っている。左側の道祖神は天保6年(1835)、堅窂地神塔は天保11年(1840)の造立。
すぐ先に「瀬谷銀行跡」(右)がある。養蚕業が盛んだった明治時代後半、地域金融事業の中心となったのが瀬谷銀行。明治40年(1907)に設立されたが養蚕業の衰退とともにその役目を終了。 |
旧道は旧瀬谷銀行の竹垣に沿って右に曲がり善昌寺前を通り過ぎて県道401号(瀬谷柏尾道路)に合流。 |
合流する手前に「北向き地蔵」(左)が。 祠の中には北向きの地蔵を中心に左右3体ずつの地蔵が向き合っている。
お地蔵様が会議をしているような。
瀬谷柏尾道路に合流して数分の「妙光寺」(右)は古刹中の古刹。
寺の縁起によると飛鳥時代の白雉3年(652)に明光比丘尼が建てた庵が起源だという。 弘安5年(1282)には身延山久遠寺から常陸国へ向かう日蓮が立ち寄っている。梵鐘は正中2年(1325)に鋳造されたもの。 |
妙光寺を出て数分、十字路際にひっそりと立っているのは地神塔。その先の十字路を右に曲がった先の上り坂を「牢場坂」(左)という。室町時代、北条早雲の家臣で相州東部、北部に威勢を張っていた藤原朝臣山田伊賀入道経光が設けた牢場が鎌倉街道沿いに置かれていたことから、いつしか
牢場坂。
街道に戻り5分ほど歩くと高台に「若宮八幡宮」(右)が鎮座。善昌寺を建立した岩崎丹後守が室町時代末期に創建したと伝えられているが東名高速の建設で移転を余儀なくされ現在地へ遷座。 |
この先しばらくは見所が無い。神社下にバス停八幡神社前 があったので今回の旅はここまで。 |
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