表紙へ戻る


鎌倉街道上道

 (1)鶴岡八幡宮から寺分   (2)寺分から下飯田  (3)下飯田から上瀬谷  (4)上瀬谷から本町田  (5)本町田から関戸  (6)関戸から西国分寺  (7)西国分寺から所沢   (8)所沢から狭山  (9)狭山から西大家 
     (10)西大家から鳩山町  (11)鳩山町から嵐山町  (12)嵐山町から能増  (13)能増から小前田  (14)小前田から児玉  (15)児玉から神流川   (16)神流川から西山名駅  (17)西山名駅から高崎城址

(7) 西国分寺からから所沢まで 街道地図

鎌倉街道上道の旅 7回目のスタートはJR中央線の西国分寺駅から。

恋が窪を通過したあと五日市街道、玉川上水、青梅街道、野火止用水、を横断して所沢に入って行く。
途中には 鎌倉街道 の表示や 旧鎌倉街道 と刻まれた石標、 鎌倉街道の説明板 などが何カ所にも。
また新田義貞の鎌倉攻めに係わる旧跡や旧道の雰囲気が残る道筋も残っており古街道歩きを楽しませてくれる。
 

平成29年10月27日

西国分寺駅を出て、まず向かった先は「姿見の池」(左下)。

恋が窪が鎌倉街道の宿場であった頃、遊女たちが朝な夕なに自らの姿をこの池に映していたという言い伝えが。
この池には悲しい伝説も。坂東武者の畠山重忠と恋仲であった遊女の夙妻(あさづま)太夫が、太夫に熱を上げるもう一人の男から重忠討ち死にという嘘の話を聞かされ悲しんで池に身を投げてしまったという。

姿見の池から街道に戻ると「阿弥陀堂跡」(右)(現在は墓地となっている)がある。凱旋した重忠は太夫の死を悲しみ阿弥陀堂を建て菩提を弔ったのだった。
 コメント:階段途中の石碑は霊園改造記念碑で、阿弥陀堂跡とは関係ない。

数分歩いた先の「東福寺」(左)は鎌倉時代初期の創建と伝わり江戸時代にはこの先の熊野神社の別当寺であった。
境内の階段下に「傾城墓」(右)が建てられているが脇の説明碑によると、夙妻太夫の死を憐れんだ里人が手厚く葬り松を植えたところ その松は太夫の悲しみのためか一葉になってしまったという。

その 一葉の松 の何代目かが墓標の右側に植えられている。

東福寺から4~5分先の「熊野神社」(左)は創建年代不詳であるが新田義貞鎌倉攻めの兵火で焼失というから鎌倉時代以前の創建ということになる。現在の社殿は慶長2年(1597)の再建。

参道の途中にあったのは「聖護院道興准后歌碑」(右)。
  朽ち果てぬ 名のみ残れる 恋ヶ窪 今はた訪ふとも 知記りならずや
文明18年(1486)、鎌倉より入間へ向かう途中に御歌奉額したもの。

社殿の右側奥に宝雪庵可尊が建てた芭蕉句碑と可尊の句碑が並んでいる。

街道は恋ヶ窪用水の脇を通り西武国分寺線を横断して(現道路は西武線で分断されている)住宅地の中を通り府中街道に合流。
東恋ヶ窪5丁目交差点先の細い道が旧街道だが今は消滅状態。しばらくは府中街道を歩く事に。

恋ヶ窪交差点先の三叉路際にある小さな祠は「厳島弁財天」(左)。この三叉路は右側を行く。

上水本町交差点を右に曲がると 『二ツ塚』 というバス停があるが、かつて、この先の上鈴木(現上水本町)を通る鎌倉街道の両側に一里塚があり二ツ塚と呼ばれていた。 その塚は今は無い。

4~5分歩くと恋ヶ窪で消滅した旧道に復帰。旧道からちょっと奥まった場所の「上鈴木稲荷神社」(右)は享保8年(1723)、新田開発の際に勧請したもので 二つ塚稲荷 と呼ばれたこともあった。

街道に戻り数分歩くと玉川上水に突き当るがここは「鎌倉橋」(左)を渡って対岸へ。この橋は昭和52年(1977)に架設されたものだが鎌倉街道のルートと微妙にずれているところがなんとも。

鎌倉橋を渡ると「鎌倉街道の表示」(右)があるが この先の旧道はは小川町まで ほぼ真っすぐ。
途中にあった鎌倉街道説明板によると「この道は天平の昔からの東山道武蔵路で、鎌倉幕府が開かれると鎌倉街道と呼ばれるようになった」 とある。
 

上鈴木(現上水本町)から2kmほど続いた旧鎌倉街道の旧道は残念ながらブリジストン東京工場の手前までで、その先は消滅。

府中街道に出て20分ほど歩くと八坂交差点に差し掛かるが、ここは かつて「九道の辻」(左)と呼ばれ鎌倉街道・江戸道・秩父道・奥州街道など九つの道が集まった交通の要所。

標柱と反対側の交番裏に 「迷いの桜」(右) と呼ばれる大木がある。元弘3年(1333)、鎌倉攻めに向かった新田義貞が ここでどの道が鎌倉への道か迷ったので一本の桜を植え道しるべとしたのだそうだ。
その後いく度か植え替えられているが現在の桜は昭和55年(1980)に植えられたもの。

この交差点を横切っている川は「野火止用水」(左)。玉川上水開削を成功させた老中松平伊豆守信綱が玉川上水の分水を自己の領地内に引き入れたもので伊豆殿掘とも言われていた。

交差点の右側にある2基の石塔は「石橋供養塔と馬頭観音」(右)。
供養塔は元文5年(1740)の建立だが馬頭観音は比較的新しく明治34年(1901)の建立。

この先しばらくは府中街道をてくてくと。

西武多摩湖線のガード先に「八坂延命地蔵尊」(左)の祠がある。この地蔵尊は昭和32年(1957)安置という新しいもの。ガード下でトレーラーにはねられ命を落した児童二人の菩提を弔ったものだという。

その先10分ほどの「八坂神社」(右)は創建年代不詳だが別当寺の正福寺が建立された弘安元年(1278)から応永14年(1407)の間と考えられている古社。江戸時代までは牛頭天王社と称されていた。

西部新宿線の踏切り手前に「境塚」(左)と呼ばれる小山がある。この辺りは秣(馬のエサ)場であったが新田開発が進められたことで境界をめぐる入会地トラブルが発生。そのため築かれたのが境塚。
その説明板に「あちら側にある円墳状の塚で・・・」と記されているが、あちら側ってどちら側?

東村山駅前を過ぎたら府中街道と分かれて左に入る道が旧道。
入ってすぐの旧家の前に「旧跡鎌倉古道」(右)と記された標柱が建てられている。この先は静かな旧道が続く。

旧道は西武線に沿って北上していく。

途中の白山神社横の祠の中に見える石造は「牛頭天王像」(左)。文政2年(1819)に造立されたことが台石に刻まれているが、どういうわけか明治の初めに井戸の中から発見されたのだそうだ。

西武線に沿って北上すると丁字路の向うに立川家の長屋門が見えるはず、だが見えない。今は真新しい住宅の連なり。

旧立川家の敷地に沿って数分歩くと「熊野神社」(右)に到着。
創建年代は定かではないが、言い伝えによると新田義貞が久米川の合戦のとき後詰を置いた場所だという。

街道に戻り西武線の踏切りを渡ると旧道は真っ直ぐ進む道と右へ曲がる道の二手に分かれる。旧鎌倉街道は右へ曲がり公事道を通って長久寺前に出るのだが、真っ直ぐ進み久米川古戦場跡に寄り道を。

踏切を渡って数分、徳蔵寺の 板碑保存館 が凄い。展示されているのは約170基もの板碑や宝篋印塔、五輪塔など。
中でも元弘3年(1333)建立の重要文化財「弘元の板碑」(左)には『太平記』の記述を裏付ける新田軍の将士3人の討ち死者の名前が刻まれており戦史を実証する貴重な板碑。

徳蔵寺を出て橋を渡り、さらに数分先で渡る橋は久米川の合戦に勝利した軍勢が通ったとされる「将陣場橋」(右)。

将陣場橋を渡り八国山の山裾を回り込むと小さな公園に「久米川古戦場跡碑」(左)が建てられている。
『太平記』によれば鎌倉幕府倒幕に向かった新田義貞の軍勢は小手指河原(所沢市)での初戦を勝利し第二戦が行われたのがこの周辺一帯。その後も度々合戦の場となっている。

八国山の頂上に「将軍塚」(右)と刻まれた石碑が建てられている。この山に陣を置いた新田義貞は塚を築き白旗を掲げたと伝えられている。
はちこくやま/駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八カ国の山々が望めたことから八国山と呼ばれた。

西武線踏切り手前まで戻り左に曲がった先に「公事道(くうじみち)(左)と記された道路標示が。
鎌倉時代、久米川の公事所(税取り立て等を行う役所)に通じていた道で、この辺りに久米川宿があったのだが往時の面影は感じられない。この先の二瀬橋を渡ると埼玉県・所沢市。(踏切側から来た場合は右に曲がる)

表示先の二瀬橋交差点を左に曲がり国際航空専門学校の手前を左に入って行く。数分歩くと三叉路の真ん中に文政元年(1816)建立の「庚申塔」(右)が1基。旧道はここを右に行くのだが、ちょっと寄り道を。

向かった先は「勢揃橋」(左)。新田軍が鎌倉攻めの際、ここで勢揃いしたと伝えられる橋。ここから久米川古戦場に向かったのだろうか。
橋に繋がるこの道は鎌倉街道の旧道脇道で北に向かって数分歩くと先ほどの庚申塔右側の道に合流する。

その先の「長久寺」(右)は鎌倉時代に念仏講の一遍上人が開いた寺で、開山は徳蔵寺の 弘元の板碑 を建てたと伝わる玖阿上人。

山門を入った左側の「廻国供養塔」(左)は安永3年(1774)の建立で周囲4面に文字が刻まれているという珍しい塔。上部の薬師如来像は後年に置かれたもの。


本堂裏の覆堂の中は「旗本 中根正重の墓」(右)。 正重は徳川家康の長男信康に仕えていたが信康の死後、家康に仕え関東に入国。 久米村に知行地を与えられ幕末まで続いたという。

長久寺を出たら坂道を上り西武線の踏切りを渡って行く。その先は住宅地の中の細い道だが、鎌倉街道説明板 や 旧鎌倉街道石標 が何カ所かに設置されており「旧道の雰囲気が残る場所も」(左)。

20分ほど歩いた先の所沢青梅線(都道179号)との交差手前にある「実蔵院」(右)の山号 「野老山」 は 「ところさん」 と読み、所沢の地名に由来する。
平安時代、在原業平がこの地を訪れた時、野老(ところ・山芋)が多いのを見て「この沢は 野老(ところ)の沢 か」とつぶやいた。 以来この地は野老沢(ところざわ)と呼ばれるようになったのだとか。

所沢青梅線との交差点まで来たらちょっと寄り道を。左に曲がり4~5分歩いたら右へ曲がって行く。

到着した場所は「弘法の三ツ井戸」(左)。
遠くまで水汲みに行く難儀を見た弘法大師が杖で三か所に印を付け「ここを掘れば良い清水が得られる」と言ったのだとか。村人が掘ると確かに良い清水が得られたという。

旧鎌倉街道まで戻るとその先に見えたのは「新光寺龍宮門」(右)。
建久4年(1193)、那須野へ鷹狩りに向かう途中の源頼朝が立ち寄り昼食を取った際の幕舎の地を寄進したと伝えられる。また元弘3年(1333)には新田義貞が戦勝祈願に立ち寄っている。

旧道は新光寺の先から消滅しているので県道6号に回るのだが、ついでに神明社と薬王寺に寄り道を。

「所澤神明社」(左)は日本武尊が東夷征伐に向かう途中、先勝祈願の祭祀を行ったのが縁起と伝えられる古社。所澤の総鎮守で 武蔵の国のお伊勢様 としても慕われている。

途中に白壁の土蔵が2棟。ここは安政3年(1856)から操業している深井醤油。野菜のたまり漬が旨いそうだ。

薬王寺は新田義貞の三男義宗の開創と伝わっている。武蔵野合戦で敗れた義宗は所沢に隠れ潜み、やがて出家。戦死した一族の菩提を弔いながら応永20年(1413)にこの地で死去。「新田義宗終焉の地碑」(右)が建てられている。

日が傾いてきたので今回の旅はここまで。 ここからは西部新宿線の航空公園駅が近い。

前の街道関戸から西国分寺に戻る   次の街道所沢から狭山    表紙へ戻る