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鎌倉街道上道

 (1)鶴岡八幡宮から寺分   (2)寺分から下飯田  (3)下飯田から上瀬谷  (4)上瀬谷から本町田  (5)本町田から関戸  (6)関戸から西国分寺  (7)西国分寺から所沢   (8)所沢から狭山  (9)狭山から西大家 
     (10)西大家から鳩山町  (11)鳩山町から嵐山町  (12)嵐山町から能増  (13)能増から小前田  (14)小前田から児玉  (15)児玉から神流川   (16)神流川から西山名駅  (17)西山名駅から高崎城址

(13) 能増から小前田まで 街道地図


鎌倉街道上道の旅 前回は奈良梨から能増にかけての掘割状遺構を歩き、川越・児玉往還(県道296号)
合流した所で終わったので今回は能増から。

この先しばらくは児玉往還を歩くが市野川を渡ったら児玉往還と分かれ市野川沿いの道を進んでいく。
途中の児泉神社脇に鎌倉街道跡と云われる掘割状の細道があり普光寺裏にも掘割状遺構が見られ、
更に進むと荒川を越える赤浜の渡し跡がある。
荒川を渡り川沿いに上流へ歩くと鎌倉街道端にあったという「於茶々が井戸」が見られる。この後は荒川を
離れ北上していくのだが公共交通機関の関係で秩父鉄道の踏切りまでとし小前田駅から帰途に。

 平成30年2月5日

西武線小川町駅から熊谷行きのバスに乗り奈良梨で下車したら県道296号(旧川越・児玉往還)を15分ほど歩くと能増の交差点。 その手前の墓地に「座り地蔵が2体」(左)。後ろには回国供養塔や庚申塔などの石造物が。

交差点を渡った右側の道端に「馬頭尊」(右)と刻まれた小さな馬頭観音があるが銘を見ると天正**年と読める。なんと400年以上前のもの。400年もの間この地に座っていたのだろうか。

この先は時々トラックが唸りを上げて通り過ぎるのが気になるが畑や田んぼが広がる長閑な一本道。

能増から高見に入ると丁字路際に「四津山神社入口石標」(左)が建てられているが神社は1kmほど先の四津山山頂。火防の神として信仰厚く、信者は関八州に及んでいたそうだ。

その四津山は「四津山城(高見城)址」(右)として埼玉県指定史跡。 中世の典型的な山城で築城年代は定かではないが鎌倉街道上道を押さえる軍事上の要所であった。

市野川を渡ると川沿いに左へ入る道があるが、この先の旧鎌倉街道のルートは二つの説がある。『歴史の道調査報告書』では川越・児玉往還であった県道を進み今市地蔵堂前から今市集落を通るルートとしている。一方、芳賀善次郎氏は左に曲がり市野川沿いを進むと児泉神社脇に掘割状の細道が見られるのでこちらが旧鎌倉街道だとしている。

どちらを歩くかはそれぞれの判断だが1年ほど前に児玉往還を歩いているので今回は芳賀氏が主張する市野川沿いを歩くことにした。左へ曲がり「上野前橋」(右)まで来たら右へ曲がって川沿いの砂利道を進んで行く。


市野川沿いの道に入って15分ほど歩くと道路際の鳥居奥に「児泉神社」(左)が見える。詳細は不明だが近くの物見山に湧き出る泉に坐する神を児泉明神として祀ったの始まりとされ江戸期に現在地に遷座。

小泉神社の境内西側に「掘割状の細道」(右)があるが芳賀氏が主張する掘割状の道とはこのことだろう。この道は50メートルほどで畑の中へ消えていく。

児泉神社の東側、畑の向うに見える「高蔵寺」(左)には児泉神社の本地仏であった十一面観音が祀られている。
寺の開基は五代将軍・徳川綱吉の側用人柳沢吉保の祖父で この地を治めていた柳沢信峻。
その「柳沢信峻夫妻の墓」(右)が本堂裏の墓地の一角にある。墓石と左右の石灯篭は吉保とその子吉里が百回忌に改建したもので その旨が墓石に刻まれている。

市野川沿いの道に戻り長閑な田舎道を10分ほど歩くと十字路際に高圧鉄塔がそびえているので、ここを右へ曲がると川越・児玉往還(県道296号)と交差。交差点向う側に見えるのは薬師堂と石塔群。

「6基の石塔群」(左)は霊場巡り供養塔や二十二夜塔、如意輪観音、百万遍供養塔など様々。一番大きな百万遍供養塔は寛政2年(1790)の建立で高さは1.5mほど。
旧鎌倉街道は川越・児玉往還(県道296号)を横断して薬師堂横を通って行く。

ほどなく丁字路の右側に「石塔が3基」(右)。真ん中の石仏は如意輪観音で安永9年(1780)の建立。右側は万延元年(1860)建立の二十二夜塔、左は六十六部供養塔のようだ。

石塔横の丁字路を左に曲がると すぐ先に鎮座しているのは「塚田三嶋神社」(左)。 この辺りは鎌倉街道の宿場として塚田千軒町と呼ばれたほど栄えた場所。それを支えたのは塚田鋳物師達であった。神社に保存されている鰐口もその鋳物師が鋳造したもので「塚田宿三嶋宮鰐口 応永二年(1395)」の銘がある。

三嶋神社から先の旧道は消滅状態だが道なりに砂利道を進み一本橋を渡って星の子幼稚園前を通ると、その先の普光寺横から旧道が復活。ここには史跡「鎌倉街道」上道と記された標柱が建てられている。


旧道に入る前に普光寺に寄り道を。普光寺は創建年代不明だが千二百年以上の歴史がある古刹。その山門は天保3年(1832)玄関は天保12年(1841)の建立。

境内左手に「多数の五輪塔と板碑」(右)が並んでいる。境内の整備工事などで発見されたもので中央の五輪塔には「大同四年開山慈門」の文字がかすかに読める。大同四年(809) また板碑には文永2年(1265)のものも。

普光寺の説明板に鎌倉街道のことが記されているが、それによると境内東側の砂利道が鎌倉街道で、北行すれば荒川に至り「山王の渡し」となる。また地図には境内裏手に掘割りがあり その先は「赤浜の渡し」に続いているとある。

普光寺東側の旧道を北行すると県道81号(熊谷寄居線)と交差するが その先は工場の敷地となり消滅。

県道を左へ曲がり200mほど歩いたら右の細い道に入ると下り坂の途中に「鎌倉街道上道」(左)と記された標柱が建てられているが、さきほど消滅した旧道はこの辺りから復活。

その先は「山王坂」(左)と呼ばれる下り坂。かつて、山王権現が祀られていたことから山王坂と呼ばれるようになったという。坂を下った旧道は道路向う側の「鎌倉古街道」(右)と記された標柱脇を通って荒川に下り「山王の渡し」で向う岸へ渡ったのだが今は藪で通行不能状態。

古街道標柱前から左へ曲がり汚泥処理センター前を通って300mほど歩くと荒川岸に「川越岩」(左)が見えるが、ここは「赤浜の渡し」があった場所。普光寺裏の掘割道はここへ通じていたようだ。狭い区間に2ヵ所の渡しがあったことになるが年代によるもか否かその理由は分からない。

荒川の対岸に渡るには上流の「花園橋」(右)を渡るのが唯一の手段。 10分ほど歩いたら橋の手前を左に曲がると橋の取り付け道路に入れるが川越岩からだと対岸までかれこれ30分ほどかかる。


花園橋を渡り100mほど歩くと「粗堂」(左)の中に2基の川端の宝篋印塔が納められている。付近の金井家が江戸時代に井戸を掘った際に出土したもので延文3年(1358)の銘があるそうだ。

ここから荒川の土手沿いの道に戻り しばらく歩くと民家の納屋裏手「荒川の板石塔婆」(右)が多数見られる。鎌倉時代から室町時代にかけて造立されたものでこれだけまとまっているのは珍しい。
 コメント:川田粂太郎翁頌徳碑が見えたら2軒先の納屋裏手の高台にある。

旧道に戻りすぐ先の坂道を上ると小さな十字路となるが、この左側に「石仏石塔」(左)が雑然と並んでいる。かつての墓跡のようだが全く手入れされていないのが痛々しい。
右側の墓地内には安永4年(1775)建立の「回国供養塔」(左)がある。

この十字路を通り過ぎ次の十字路まで来たら旧鎌倉街道は川越・児玉往還と分かれ左に曲がって行く。
この先は県道140号と荒川の間の道を進むのだが今は舗装された広い道で旧道の面影は無い。

30分ほど歩くと左側の開けた場所に「於茶々が井戸」(左)と呼ばれる鎌倉時代からの古井戸が見える。
ここには鎌倉街道を行き交う旅人が休息する茶店が一軒あり 於茶々 という美人の娘が茶の接待をしていたそうだ。いつの頃からか旅人が 於茶々が井戸 と呼ぶようになったのだとか。

街道は於茶々が井戸の先から県道140号を横断し住宅地の中を通って北進、「秩父鉄道の小前田踏切り」(右)を越えて行く。 かつては踏切りの先は細い砂利道だったが今は車も通れる舗装道路。この先600mほどで再び川越・児玉往還に合流するが今回の旅はここまで。秩父鉄道・小前田駅から帰路に。

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