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鎌倉街道上道

 (1)鶴岡八幡宮から寺分   (2)寺分から下飯田  (3)下飯田から上瀬谷  (4)上瀬谷から本町田  (5)本町田から関戸  (6)関戸から西国分寺  (7)西国分寺から所沢   (8)所沢から狭山  (9)狭山から西大家 
     (10)西大家から鳩山町  (11)鳩山町から嵐山町  (12)嵐山町から能増  (13)能増から小前田  (14)小前田から児玉  (15)児玉から神流川   (16)神流川から西山名駅  (17)西山名駅から高崎城址

⑧所沢から狭山・奥州道交差点まで 街道地図

鎌倉街道上道の旅、第8回は所沢の県道6号と国道463号が交差する「峰の坂交差点 から。

この先しばらくは遥か彼方まで続く直線道路を歩くのだが旧鎌倉街道石標が何カ所かに設置されているだけ。
江戸時代は武蔵野台地の中の寂しい一本道だったのだろう。新所沢を過ぎ旧入曽村に入ると金剛院や七曲井など
何カ所か見どころが。
再び直線道路を40~50分ほど歩くと入間川。その先は 「八丁の渡し で入間川を越えていたのだが今は
新富士見橋を渡って対岸へ。 橋を渡り5~6分ほど歩くと八丁の渡しに続く旧道に入れる。旧道を10分ほど
歩くと奥州道交差点に差し掛かるがここを横断し信濃坂を上って行く。

平成29年11月8日

前回終了した薬王寺から街道に戻ると、その先は上りの 峰の坂。
坂の頂上を見ると峰のようだったので峰の坂と名付けられたそうだが頂上の「峰の坂交差点」(左)を過ぎると平坦な直線道路が遥か見渡す彼方まで。

10分ほど歩くとY字路の真ん中に鎌倉街道の説明板があるが ここは「本道と枝道の分岐点」(右)。左が本道で右の道は堀兼道と呼ばれ川越方面へ向かっていた。

峰の坂交差点から先からは見どころが無いが旧鎌倉街道石標が3箇所に。

峰の坂交差点から7~8分歩いた先の
所沢中学校正門右側にある。
新所沢駅入り口交差点そばの植込みの
中にある。
新所沢駅入り口から24~25分歩いた
西富小学校の正門脇にある。

出発地の峰の坂交差点からかれこれ1時間半、入曽に入って最初に向かった先は建久年代(1190~98)の創建と伝わる古刹・金剛院。江戸時代は御嶽神社(現入間野神社)の別当寺でもあった。

本堂は明治38年(1905)の火災で焼失し再建されたが「四脚門」(左)は天明2年(1782)に建立されたもの。
四脚門を入った左側、植え込みの中の 「庚申塔」(右)も四脚門と同じ天明2年の建立。 境内には天明3年(1783)建立の道標を兼ねた石橋供養塔があるということだが見逃したようだ。

金剛院を出たら街道から離れてちょっと寄り道を。

金剛院の裏門近くにちょっと珍しい「光明真言読誦供養塔」(左)が建てられている。大日如来像の上の円形部分に光明真言(23字の梵字)が刻まれたもので、文久2年(1862)に建てられたもの。

供養塔の脇を通って10分ほど歩くと覆堂の中に「下水野の地蔵尊」(右)が。貞享2年(1685)に造立されたもので新田開発で入植した人達の心の拠り所として造られた。
この地蔵さんは「夜泣き地蔵」「化け地蔵」「抜苦地蔵」「子育て地蔵」など様々な呼ばれ方をされているそうな。

街道に戻り数分、石鳥居奥の「入間野神社」(左)は建久2年(1191)の創建と伝えられる古社。 石造の御神体には天正6年(1578)の年号が刻まれているという。

神社のすぐ先を流れる「不老川」(右)の表示板には「ふろうがわ」とルビが振られているが元々の川名は 「としとらず川」。昔は冬になると干上がってしまい水が流れなくなってしまう。そのため「としとらず」と言われ「節分の夜、不老川の橋の下に居ると歳をとらない」という伝説があったのだとか。

不老川際の「常泉寺観音堂」(左)の創立は建仁2年(1202)と言い伝えられている。本尊の木造聖観音菩薩坐像が納められている現在の堂宇は宝永5年(1708)に再建されたもの。

観音堂の裏に江戸時代まで使われていた「七曲井」(右)がある。
この井は発掘・復元されたものだが武蔵野台地はどこも飲料水を得ることが大変困難。深い井戸が必要だったので このように擂鉢状に掘り下げ 底の部分に井戸を掘っていた。形状から「まいまいず(カタツムリ)井戸」と呼ぶ地域もある。

七曲井のちょっと先、奥まった所に鎮座している「野々宮神社」(左)は創立年代不詳であるが日本武尊の叔母である倭姫命(やまとひめのみこと)が主祭神。日本武尊が東夷征伐の帰途、当地に立ち寄り水を得るため掘難の井を掘らせたという伝説がある。日本武尊の死後、彼の叔母一族が移り住み社殿を建設し倭姫命を祀ったのが始まりと伝えられる。

野々宮神社に合祀された「入曽の神様」(右)の説明を巫女さんが行っているという説明板がいいね~。この巫女さん、なかなか可愛いく描かれているんだ。

街道に戻り県道50号・227号をかれこれ40分ほど歩くと西部新宿線に突き当り、その先は消滅。、

消滅する手前の「白山神社」(左)は創建年代不詳だが境内の樹齢7、800年と推定される大欅を明治10年(1877)に伐ったと伝えられているので鎌倉時代初期にはこの地に鎮座していたと推定される。

少し戻って西武線の踏切りを渡ると「庚申塔祠」(右)が。
傍らの「お庚申様ものがたり」と題された説明板に「・・200年ほど前に建立せられ・・・・」とある。銘を見ると寛政*年、確かに約200年前だ。

この先は消滅した旧道の迂回路を歩くのだが、ついでに2ヵ所に寄り道を。

最初に向かった先は慈眼寺。境内の裏手に「黒焦げ地蔵」(左)と呼ばれる地蔵尊が覆堂の中に鎮座。
かつての入間川宿には多くの遊郭があったが、その遊女たちの深い信仰を受け常に線香の煙やロウソクの灯が絶えなかったという。いつしかそのススで真っ黒になってしまったのだとか。

慈眼寺から4~5分歩くと入間川の「総鎮守・狭山八幡神社」(右)。
創建は室町時代初期とされている。新田義貞の信仰厚く「新田の八幡様」と呼ばれたこともあった。

この神社の「本殿」(左)が素晴らしい。寛政8年(1796)に初釿(おのはじめ)をして7年の歳月をかけて完成したという。四囲はもちろんのこと脇障子にまで透かし彫りの彫刻が施されているという豪華なもの。

本殿脇の切り株は「新田義貞駒繋ぎの松」(右)。
元弘3年(1333)、北条高時を討つべく鎌倉へ向かった新田義貞は八幡神社に戦勝祈願。その際に愛馬を繋いだ松だそうだ。残念ながら現在は切り株だけとなってしまった。

八幡神社を出て坂を下ると市立図書館の前で白山神社の先から消滅した旧道に復帰。

旧道に入って数分、路地を右に曲がった奥は元弘3年(1333)建立の「徳林寺」(左)。新田義貞が鎌倉攻めの際この地に本陣を置き その守護仏として聖観音を安置したのが始まりと伝わっている。

山門を入った左側の「六角地蔵堂」(右)に安置されているのは延命耳地蔵尊。 河原から穴の開いた石を探して紐を通し願掛けすると耳が聞こえるようになるのだという。

街道に戻り菅原橋を渡ると、その先は「八丁の渡し」で入間川を越えて行ったのだが この道は今は消滅。 新富士見橋で入間川を越えて行く。

新富士見橋を渡る前に寄り道を。国道16号を入間市方向へ5分ほど歩くと源儀高(清水冠者儀高)が祀られた「清水八幡宮」(左)が国道沿いに鎮座。木曽義仲の嫡子である儀高は源頼朝の人質となったが義仲が頼朝に討ち果たされると身の危険を感じ従者6名と逃亡。しかし入間川原で討ち取られたという。ここに祀られているのはその清水冠者儀高

新富士見橋から下流方向を見ると昭代橋との間あたりに「八丁の渡し跡」(右)付近が見えるが場所は定かではない。

広瀬東交差点まで来たら右に曲がり数分歩くと八丁の渡しに続いた旧道に復帰できる。
旧道を10分ほど歩くと交差点に差し掛かるがここは奥州道交差点。奥州へ通じる道であったのだろう。

交差点を渡ると「石橋供養塔」(左)が建てられている。この供養塔は道標を兼ねており刻まれている道筋は「南江戸道 北小川道」、正面に「西 八わうじ道」とある。安永3年(1774)に建立されたもの。

その後ろの地蔵尊は「影隠地蔵」(右)。追手に追われた清水冠者儀高が地蔵の後ろに隠れ難を逃れたのだそうだ。元々は木製の地蔵。石地蔵が建立されたのは明治7年(1874)のこと。

奥州道交差点から上り坂となるが、この道は信濃の国へ通じていたので「信濃坂」(左)と呼ばれている。

鎌倉街道を歩いていると思ったら奥州道に入り、その先は信濃坂。奥州と信州信濃がつながっているとは変だね~。

品濃坂標柱の先に「歴史の道」と題された鎌倉街道の解説板が設置されている。
奥州道交差点の傍に狭山市駅に向かうバス停があったので本日の街道歩きはここまで。

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