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鎌倉街道上道

 (1)鶴岡八幡宮から寺分   (2)寺分から下飯田  (3)下飯田から上瀬谷  (4)上瀬谷から本町田  (5)本町田から関戸  (6)関戸から西国分寺  (7)西国分寺から所沢   (8)所沢から狭山  (9)狭山から西大家 
     (10)西大家から鳩山町  (11)鳩山町から嵐山町  (12)嵐山町から能増  (13)能増から小前田  (14)小前田から児玉  (15)児玉から神流川   (16)神流川から西山名駅  (17)西山名駅から高崎城址

(12) 嵐山町から能増まで      街道地図

嵐山町から先の鎌倉街道は幾つかのルートが唱えられているが、いずれも明確にはなっていない。
今回の旅では旧道に比較的近いルートとして川越・児玉往還(県道296号)を歩くことにした。この街道は
江戸時代、中山道の脇往還として多くの旅人が利用した街道で鎌倉街道と重なる部分も多い。

小川町奈良梨まで歩くと児玉往還の西側に掘割状の旧道が往時のまま残されており旧鎌倉街道上道の
醍醐味を味わうことができる。掘割状遺構を歩いたあと能増で児玉往還に合流。今回の旅はここまでとした。
その先、小前田までの10kmほどは公共交通機関が無いので歩く際は注意を。

平成30年1月25日

武蔵嵐山駅入り口を過ぎ東武東上線の踏切りを渡って15分ほど歩いた先の「志賀観音堂」(左)は 「比企西国観音霊場二十八番札所」 として大変賑わっていた。その境内に多数の石仏・石塔が並んでいるが聖徳太子像や寛保7年(1741)建立の高さ2m超という宝篋印塔など町指定の石仏石塔だけでも11基ほどある。

ほどなく田んぼの向うに「杉山城跡」(右)が見えてくる。
「続日本100名城」に選ばれた杉山城は松山城主上田氏の家臣、杉山主水の居城と地元では伝えられている。戦国時代の築城と推定されているが鎌倉街道を見下ろすという絶好の条件を備えた典型的な山城である。

この先、奈良梨までは県道296号を歩くのだが街道際に結構多くの石仏・石塔が見られるのでまとめて紹介。
民家の庭先に雨降山と刻まれた大山講灯篭が
建てられている。
嵐山町と小川町の境界点、街道に面した裏庭に、
馬頭観音、大黒天、庚申塔など3基の石仏がある。
小川町にに入って4~5分、道路際に元文5年
(1740)と万延元年(1860)の文字庚申塔が2基。
庚申塔の隣に道標があり、「下小川ヲ経て小川町
約一里」と刻まれている。

県道11号を横断した数分先、安永5年(1776)に
建立された庚申塔が道路際に
下横田の大黒天は嘉永7年(1854)の建立。 大黒天のすぐ先、田んぼに面して4基の馬頭観音。 奈良梨と上横田の境界にあった庚申塔は享保元年
(1716)の建立。

奈良梨交差点まで来ると「八和田村道路元標」(左)が歩道際に据えられている。大正8年(1919)の道路法施行令により各市町村に設置されたが、その多くが忘れられた存在であった。 奈良梨交差点にあった道路元標はここに移設され大事に保存。

奈良梨交差点際の 一の鳥居 から真っ直ぐの参道が続いた先の「八和田(やわた)神社」(左)は天文年間(1532~55)に諏訪神社として創建され地元では「お諏訪様」と呼ばれていた。明治22年(1889)に周辺八カ村が合併して八和田村となったことから神社名を「村社八和田神社」と改称。

境内にある「逆さスギ」(左)と呼ばれる大杉には次のような伝説が。
天正18年(1590)に奈良梨に入った諏訪頼水が所領を定める際に信州諏訪から投げた杉がこの地に逆さに刺さり そのまま根を下ろし成長したと言い伝えられている。

八和田神社の境内は諏訪頼水が陣屋を構えた場所とされ境内東側に土塁と堀跡が見られる。
境内東側に設置されている説明板によると長い間確定されていなかったが発掘調査の結果ここは「奈良梨陣屋跡」(右)と推定。

川越・児玉往還は八和田神社の西側を通り萬福寺と普賢寺の間を通って能増へ抜けていくが、さらにその西側に鎌倉街道上道特有の掘割状遺構が残されているので今回はこちらを歩く事に。

八和田神社から奈良梨交差点まで戻り県道296号を100mほど歩くと路地の入口に「⇒諏訪神社奉祀遺跡」(左)と記された標柱があるので、この路地を入ると鎌倉街道上道の旧道に入ることができる。

路地を入って百数十メートル歩いた三叉路に「馬頭観音」(右)が祀られている。旧道はこの三叉路を右に曲がり土道に入って行く。 コメント:この馬頭観音は夏になると雑草に埋もれて見えなくなるかもしれない。

三叉路を右へ曲がった先は要所毎に案内標柱が建てられているので迷うことはない。

普賢寺の横を通って林の中に入ると「諏訪神社奉祀跡」(左)に小さな石宮が建てられている。傍らの説明板によると「徳川家康が行った知行割でこの地に移った諏訪頼水が旧領の諏訪から諏訪社を勧請。その跡地とされている」。
この辺りを天王原と呼んでいるが奉祀跡の前の北西に向かう細い土道は鎌倉街道上道跡

突き当りの丁字路向う側に祀られている「馬頭観世音の先に掘割状遺構」(右)が林の中を下って行くいく。だが下った先に小さな川が流れており その先へ行くことはできない。
この丁字路を右に曲がると何カ所かに「旧鎌倉街道跡」と記された案内標柱が建てられている。

先ほどの丁字路先から下る掘割状遺構の先が田んぼの中を通る「旧鎌倉街道跡」(左)で諏訪神社奉祀跡の天王原からここまで一直線。

この先は左写真の林の中に入って行くが、そこには「伊勢根の掘割状遺構」(右)が140mほどの長さで残されている。説明板によると試掘調査の結果、側溝が施され、5回ほど改修も行われているという。
遺構の右側に人一人通れるほどの道があるのでぜひ歩いてみたい場所だ。

伊勢根の掘割状遺構を上りきると丁字路の舗装路に出るが、その先の下り坂も「旧鎌倉街道跡」(左)。
坂道を下ると再び丁字路の突き当りとなりその先は民家となって旧鎌倉街道は消滅。

試しに民家横を入り公園脇の林の中を藪漕ぎしながら進むと民家の裏に再び「能増の掘割状遺構」(右)が残されていた。この遺構は100m弱ほどの長さ、林を出た所が県道296号(川越・児玉往還)

掘割状遺構を出たら再び児玉往還を歩いていくのだが、この先は小前田まで公共交通機関が無い。ここから県道を1kmほど戻ると奈良梨交差点にバス停があるので今回の旅はここまで。

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