|
鎌倉街道上道の旅 今回からは上州・群馬県。
JR八高線の群馬藤岡駅から神流川の土手まで歩き街道旅再開。
神流川の土手を降りたら美久里東小学校の脇を通り、庚申山に登り、幾つかの集落を抜けながら
鮎川・鏑川を越え、雲雀の囀りを聞きながら田んぼの中の長閑な道を歩き、上信電鉄・西山名駅まで
昼食を含めて5時間ほどの歩きであった。
途中、旧道が消滅した部分も何カ所かあったが田舎道をりノンビリ歩くことができた。 |
JR群馬藤岡駅から神流川まで約4kmほど。途中に何カ所か見どころがあるので寄り道しながら。 |
藤岡駅から20分ほど歩いた「藤岡諏訪神社」(左)は6世紀後半に造られたとされる古墳の上に鎮座。由緒によると上代(奈良時代ごろ)に明神の荒魂と和魂が椙山明神上下2社に祀られていた。永禄9年(1566)、芦田下野守信守が信濃国諏訪大社の上下2社から剣一口、鏡一面を請い受け神霊にしたという。
さらに20分ほど歩くと田園風景広がる長閑な道となるが、その右側に見えたのは「本郷埴輪窯阯碑」(右)。明治39年(1906)に発見された本郷埴輪窯跡で、古墳時代に 登り窯 が築かれ埴輪が焼かれた場所。跡碑右側の建物は登り窯跡保存の覆屋。
|
埴輪窯跡のすぐ先に見える社は「土師神社」(左)。 地元では「どし神社」と呼んでいるが祭神は殉死者の代用である埴輪を発明したとされる野見宿禰(のみのすくね)。さきほどの埴輪窯で埴輪や土器の製作に当たったであろう土師氏の祖にあたる。
また野見宿禰は垂仁天皇の命により当麻蹴速 (たいまのけはや)と相撲をとり勝ったとされる相撲取りの祖。その野見宿禰にあやかり境内に日本三辻の一つとされる「土師の辻(相撲の土俵)」(右)が設けられている。 ちなみに他の二つは摂津国住吉神社と能登国羽咋神社。 |
土師神社を出て長閑な田舎道を石仏石塔などを見ながら約10分。左手に大きな水路竣工記念碑がある十字路に差し掛かるが、ここを横切る道が神流川を渡ってきた旧道の延長。
せっかくなので神流川の土手まで歩いてみることに。 |
その途中の畑の中に小さな祠が見えるが これは「葵八幡」(左)。 木曽義仲の愛妾・葵御前を祀ったと云われている。祠の両側に阿弥陀一尊立画像の板碑と阿弥陀三尊種子の板碑が建てられているが共に1300年代初頭のもの。
その先数分歩くと「道標」(右)が2基。 台座付きの道標には「大字川除至」と刻まれているが「川除」とはこの先の地名のことだろう。もう1基の道標は 「向左三十間右折」 と読めるが。 |
道標の先は「神流川の土手」(左)。渡河地点付近だが今は雑木の繁茂で対岸を見通すことはできない。
土手を下りたら鎌倉街道の旅 再開。先ほどの十字路まで戻り北西に向かって進み坂道を上ると美九里東小学校の脇に出るが旧道は小学校の校庭に入り消滅。
校庭沿いに歩き右に曲がると学校の正門内側に「鎌倉街道説明板」(右)が設置されている。説明の中に「・・・・人々は物見山(庚申山)を通り、道中郷から神流川を渡って・・・」とある。「道中郷」とは、先ほどの2基の道標近くに道中郷公会堂があるのでこの辺りの旧地名のことだろう。 |
美九里東小学校正門前から旧道が復活。4~5分歩いた先の本郷橋手前に「道路拡幅記念碑」(左)が設置されているが、この碑の左端に刻まれている文字が「この道は鎌倉街道」。
橋を渡り右へ曲がると「蓮生の池」(右)がある。かつては街道際までの大きな池で馬の足洗い場であった。
旧道はその先の県道13号を横断し山中の道に入って行くのだが途中から消滅。ここは迂回路として龍田寺前から自動車学校脇を通って行く。 |
鎌倉街道探索の旅・上道編によると龍田寺の裏を通って庚申山の山裾の道に出られることになっており地図にも道が記されている。しかし、今は藪漕ぎしても無理な状態。旧道に近い道を歩くと十字路際に六地蔵や百番供養塔、廻国供養塔などの石仏石塔がある。この十字路を右へ曲がり すぐ先を左に曲がると「龍田寺」(左)の前。
龍田寺の山門を入った左側に「巳待塔」(右)と刻まれた珍しい石塔が。あまり見かけないが月待講の一つ。甲子(きのえね)の日に講で集まり夜中まで起きて精進する行事だそうです。
|
龍田寺を出たら自動車学校横を通ると庚申山の山裾を通る旧道に戻れるのだが、この「旧道」(左)がなんとも長閑。
数分歩くと「道祖神が2基と如意輪観音が祀られた祠」(右)が。
道路反対側に「庚申山頂→」の案内あるので山頂までの登山を。庚申山は群馬百名山の一つ。といっても標高189m、百名山の中で一番低い山なのだ。 |
案内に従って車道を数分上り女坂を4~5分歩くと「山頂」(左)に到着。登山というにはちょっと物足りないような。訪れた日は平日であったが結構多くの人が登って来るので人気がある山のようだ。
頂上広場の一角に比較的大きな「庚申塔」(右)が据えられているが、これは安政7年(1860)の造立。ベンチの後ろにも7基の小さな庚申塔がある。 展望塔に上ってみたが眺望はあまりよくない。
|
庚申山から旧道に戻り坂道を10分ほど下って行くと田園風景広がる田んぼの中の道となるが、その途中に幾つかの石仏・石塔があるのでまとめて紹介。 |
|
|
|
|
|
自然石に刻まれた文字は「馬頭観音」。 |
庚申塔3基、甲子塔一基、地の神様1基。 |
これは珍しい。大正9年(1920)の建立。 |
白山神社先の公園内にあります。 |
|
田んぼの中の道を抜けて県道175号・13号を横断し鮎川の集落に入ると十字路際に「道標と道祖神」(左)がある。道標に刻まれている文字は「右本郷 左藤岡 正面西平井」。ここは正面の道に入って行く。
五分ほど歩くと火の見櫓が見えるが、その下の変則十字路を右に曲がって行く道が旧道。
十字路の左正面塀際に背が高く文字が多い「道標」(右)が。かなり読みずらいが「右 藤岡町道**** 正面 東平井 西平井 **鬼石秩父道 左**白石吉井富岡高崎道」と読める。
|
この十字路を左に曲がると北野神社の鳥居がありその先の高巌寺入口の石垣上には庚申塔などが無造作に並んでいる。 |
十字路まで戻り右の道を行くと道路際に「道標」(左)が一本。正面に「鬼石 秩父 道」。
その先は「田んぼの中の一本道」(右)。途中に「凱旋馬頭尊」と刻まれた大きな碑があるが詳しい事は分からない。
田んぼの中の旧道はやがて鮎川に突き当り行き止まり。鎌倉街道探索の旅・上道編には「水量が少なければ川を渡れる」としているが今はとても無理。ここは上流の緑埜橋を迂回するしかない。 |
20分ほどかけて対岸の旧道に復帰。丁字路際に「千部供養塔」(左)がある。 寛政4年(1792)に造られたもので天明3年(1783)の浅間山大爆発による被害状況を刻んだもの。
この一角には無数の道祖神や庚申塔等も。
丁字路を右に曲がって鮎川の渡河地点まで足を伸ばしてみると畑の中に「夫婦道祖神」(右)が。 仲良く手をつないだ微笑ましい道祖神だが忘れ去られたようにポツンと立っているのがちょっと寂しい。 |
丁字路まで戻り住宅地の中を数分歩くと田んぼの中の道となるが、この先の旧道は消滅。 |
農道を通り県道173号を横断してほどなくすると「大聖峯寺参道の大欅」(左)が見えてくる。この欅は樹齢500年以上ということだが節くれだった幹の迫力が凄い。
千部供養塔の先で消滅した旧道は大聖峯寺の先辺りで復活しているのではないかと推測する。
大聖峯寺は大正時代初めに近くの三寺を合寺して創立した寺だが、裏手の不動山中腹の「不動堂」(右)は江戸時代中頃の元禄12年(1699)に建立された古建築。安置されている不動尊は神奈川県の大山不動尊と同木で造られたもの。
|
芳賀善次郎氏によると陣屋跡から先の旧道は消滅状態。ここは十字路先を道なりに北西方向に進み県道174号を横断していく。 |
横断した先から細い道に入ると右手奥に「豊受神社」(左)があるが、この一帯は文明年間(1467~87)に三ツ木信守が在城したとされる三ツ木城跡。その西側を鎌倉街道が南北に通過していた。
豊受神社を出て田んぼの中の道を進むと鏑川だが今は渡るすべが無いので上流の松ノ木瀬橋を迂回していくことに。
渡河地点辺りまで戻って真光寺前を通り上信電鉄の「西山名駅」(右)で今回の旅の終了とした。ただ、旧道は西山名駅の300mほど手前からポリテクセンター群馬の脇を通って山名駅方向に向かっていたが今は消滅状態。 |
西山名駅の待合室に上野三碑のポスターがあるが、その一つ、山上碑がここから近い。次回が楽しみだ。 |
|