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鎌倉街道上道

 (1)鶴岡八幡宮から寺分   (2)寺分から下飯田  (3)下飯田から上瀬谷  (4)上瀬谷から本町田  (5)本町田から関戸  (6)関戸から西国分寺  (7)西国分寺から所沢   (8)所沢から狭山  (9)狭山から西大家 
     (10)西大家から鳩山町  (11)鳩山町から嵐山町  (12)嵐山町から能増  (13)能増から小前田  (14)小前田から児玉  (15)児玉から神流川   (16)神流川から西山名駅  (17)西山名駅から高崎城址

(14) 小前田から児玉まで     街道地図

鎌倉街道上道の旅、14回目は秩父鉄道・小前田踏切りから。ほどなく県道175号(旧児玉往還)に合流。
JR八高線の鎌倉街道踏切を渡り、用土、猪俣を通って国道254号を横断。その先は鄙びた雰囲気の
白石、広木を通って児玉に至る。

この区間は旧道を歩く事が多いので路傍に庚申塔や馬頭観音など多くの石仏が残っており これらを
探しながら歩くと飽きることがない。 また途中には万葉歌碑や芭蕉句碑、はたまた古墳群があったりと、
これまでとはちょっと違う街道歩きが楽しめる。

平成30年2月20日

今回のスタートは前回終了した「小前田踏切り」(左)の前から。 かつては踏切りの先から旧道の雰囲気残る砂利道だったが今は歩道の付いた舗装路。旧道の趣が一つ減ってしまった。

10分ほど歩くと県道175号に合流。その先は用土、猪俣を経て国道254号を横断するまで一本道。数分歩くと街道際に「鎌倉街道上道説明板」(右)が設置されている。その説明板には「鎌倉幕府成立ととも整備された中世の道とされ、武蔵武士を代表する畠山重忠をはじめ、新田義貞等名将たちが栄枯盛衰の物語を刻みつけた道で・・・」とある。

鎌倉街道説明板横の真新しい鳥居奥は「原宿八幡神社」(左)。由緒が無いため詳しいことは分からないが神社前が鎌倉街道であったことから鎌倉へ行き来した武士達も参拝したのだろう。

神社裏手の常光寺は鎌倉時代の創建と伝えられ原宿八幡神社の別当寺でもあった。本堂左手の墓地入口に「多数の石仏」(右)がまとめられているが如意輪観音の半跏思惟の御姿がなんとも味わい深い。

常光寺を出て集落を通り過ぎるとしばらくは田園風景広がる田舎道。石仏を探しながら長閑な道をテクテクと。
歩道際の背の高い石柱に刻まれた文字は
「脇往還川越道 用土邑」。隣の大黒天も
道標だが「右** 左**」 だけ読める。
街道際に庚申塔が2基。文字庚申塔は
 文化6年(1809)の造立。
ちょっと先の左側、納屋の前にある
 石塔は馬頭観音。
八高線の線路際にあったのは地の神様。 JR八高線の鎌倉街道踏切り。

踏切りを渡った先、用土五区公会堂前の
小さな石柱は 「用土村道路元標」 。
更に数分歩くと応和年間(961~964)
創建という古社、諏訪神社が鎮座している。
用土四区公会堂前に寛政12年(1800)
造立の庚申塔などと共に如意輪観音も。
公会堂の右側には大黒天とともに、
ちょっと珍しい馬頭大士の石塔がある
道路際の一段高いところに文化2年
(1805)の馬頭尊が。

深谷市から美里町に入って10分、杉ならぬ桧並木の参道奥に見えるのは普門寺。
本堂横の「四十九院本尊石仏」(左)は檀徒の寄進により元文4年(1789)に造立されたもの。 足利の浄因寺にも四十九院石仏があるそうだが ここは49体全部揃い、しかも保存状態が大変良い。

普門寺を出て10分、街道際の造り酒屋は「横関酒造」(右)。 鮮度重視で蔵元直売が売りの「天仁」はすっきりした辛口の純米酒。
酒蔵の酒粕を使った奈良漬けを購入したが大根の奈良漬が美味かった。

横関酒造先の国道254号を横断したら旧道に入って行くのだが、鄙びた雰囲気がいいんだな~ ここにも旧道の定番、庚申塔や道祖神が。
旧道に入って4~5分、突き当りに見えた
のは寛政12年(1800)の庚申塔。
突き当りを右に曲がると、その先にも
寛政12年(1800)の庚申塔がある。
庚申塔の前を左に曲がり雷坂を上ると、
雷電神社の裏に道祖神が。
雷電神社の50mほど先、右手の塚上に
祀られているのは浅間大神。

「雷電神社」(左)の創建年代は定かではないが由緒によると征夷大将軍坂上田村麻呂が当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇。これを鎮めるために雷神を祀ったのが始まりと伝えられている。
覆屋に納められている本殿は寛政7年(1795)以前に地元の大工・岡田伊右衛門が造作。

7~8分先の三叉路に鎌倉街道の案内表示があるので右に曲がり、次の三叉路まで来ると「如意輪観音」(右)が。「何故ここに」などと野暮は言うまい。

この先も各所で石仏・石塔が見られる。
先ほど分かれた道に合流した場所に
庚申塔・馬頭観音・二十二夜塔が建てら
れている。 ここから先は旧大佛村宿。
四差路向うの石板は延享2年(1745)の
六道能化地蔵尊道標。行き先に「・・東江戸
・・・ 大佛村庵」とある。
右の石柱も道標。
ほどなく街道際に馬頭観音や庚申塔・
富士登山記念塔など多数の石仏・石塔が。
鎌倉街道の説明板も設置されている。
数分歩いた先には馬頭観音も。 広木集落の中ほど、三夜堂の前に庚申塔
などの石塔が集められている。

広木集落の中ほどを流れる志戸川を渡ったらちょっと寄り道を。

川沿いを5分ほど歩くと 万葉集巻九ー1745 の恋歌の地とされる「曝井の遺跡」(左)。 織布を洗いさらすために使用した湧水で ここでさらされた布は朝廷に献納されたと伝えられる。
傍らに設置された万葉歌碑に恋歌が。

曝井のすぐ先の常福寺は天平年間(729~749)創立という古刹。天正7年(1579)に武田・北条の戦いで堂宇が焼失したが鉢形城主北条氏邦によって再建。「本堂」(右)は宝暦3年(1753)に再建されたもの。

もう少し先まで足を伸ばすと「伝大伴部真足女の遺跡」(左)が見られる。この辺り一帯は防人檜前舎人石前の館跡と云われているが真足女はその妻で、防人に赴くことになった夫への想いを詠った歌が万葉集に載っている。
左写真中央の石碑が夫への想いを詠った万葉歌碑

ここまで来たのでもう一か所寄り道を。
山の中腹に見える寺院は天徳年間(957~961)創立という古刹の「大興寺」(右)。
当初は大光禅寺と称したが その後廃寺となり嘉興元年(1387)に再興して寺名を大興寺に。

街道に戻り数分、常夜灯があったので寄り道を。向かった先は「みか神社」(左)。創建年代は不詳だが延喜式神明帳に記載されているという古社。 
神社名の「みか」という漢字は今は使われないが「みか」とは酒を造る甕(かめ)のことで当神社の神宝。

参道の途中に「芭蕉句碑」(右)がある。
    麦刈て 桑の木ばかり 残りけり   芭蕉

国道254号を歩いていると右手の畑の中に幾つかの小山が見えるが、これは「広木・大町古墳群」(左)。六世紀から七世紀にかけて造られたもので保存されている古墳は8基。

その先数分の街道左側小公園は「広木一里塚跡」(右)。鎌倉街道上道はここで左に曲がり小山川を渡って児玉に入っていくが今は工場の敷地となり消滅。そこでガリガリ君で有名な赤城乳業の工場横を通って小山川の土手に出たら堰堤を渡って行く。 コメント:強い雨が降ると堰堤を歩く事はできなくなるので注意を。

小山川を渡ったら本庄児玉病院の前を通り県道175号に合流。その先5分ほど歩くと右奥に「龍體稲荷神社」(左)の赤い鳥居が見える。変わった名前の神社だが由緒が無いため詳しいことは分からない。

神社の脇を通って法養寺に向かう途中に「芭蕉句碑」(右)が。
   父母の しきりに恋し 雉子の声   芭蕉

法養寺の「山門前に庚申塔」(左)が5基あるが、ちょっと珍しいのが享保13年(1728)ショケラ(女人像)を提げた庚申塔

龍體稲荷神社まで戻ると「鎌倉街道上道説明板」(右)が街道際に。それによると小山川を渡った街道は龍體稲荷神社の手前で関東管領山内上杉家の居城・平井城に向かう上杉道と、上州を通って信州に向かう鎌倉街道上道とに分かれる。

今回の旅はここまで。次回は上杉道の途中にある石清水八幡神社や玉蔵寺に寄り道した後、神流川手前まで歩く予定。

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