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(1)鶴岡八幡宮から寺分
(2)寺分から下飯田
(
3)下飯田から上瀬谷
(4)上瀬谷から本町田
(5)本町田から関戸
(6)関戸から西国分寺
(7)西国分寺から所沢
(8)所沢から狭山
(
9)狭山から西大家
(10)西大家から鳩山町
(11)鳩山町から嵐山町
(12)嵐山町から能増
(13)能増から小前田
(14)小前田から児玉
(15)児玉から神流川
(16)神流川から西山名駅
(17)西山名駅から高崎城址
(17) 西山名駅から高崎城址まで
街道地図
鎌倉街道上道の旅 最終回は西山名駅から高崎城址まで。
西山名駅前を出発したら15分ほど歩いてユネスコの世界記憶遺産に登録された上野三碑の一つ、山上碑 に寄り道を。
そのあと旧道に復帰して高崎城址を目指すのだが その途中には平安時代後期に創建されたとされる山名八幡宮や
藤原定家を祀った定家神社、万葉集に歌われた佐野の渡し跡、謡曲・鉢木 の舞台となった常世神社などを回り、最後に
高崎城乾櫓を見て鎌倉街道上道の旅 終了である。
ところが歩き終わった後に、レプリカではあるが上野三碑を高崎駅構内で見ることが出来るという、終わり良ければ
全て良しの街道歩きであった。
平成29年3月30日
西山名駅から10分ほど歩いた三本辻際の祠に鎮座しているのは
「山ノ上地蔵尊」
(左)。建立の起源は定かではないが この辺りでは珍しい座り地蔵。地元では お陰地蔵 とも呼んでいるようだ。地蔵尊の説明板に鎌倉街道はこの先の山名八幡宮からこの三本辻に向い、下って鏑川方面に向かっていたと記されている。 芳賀善次郎氏の主張するルートとは多少異なるが時代によるズレかもしれない。
その隣の石塔は
「百万遍供養塔」
(右)。その昔、集落に疫病が流行ったとき山名光台寺から大数珠を借りて この地で三日三夜念仏を唱えたところ疫病は退散したと伝えられている。
三本辻を左に曲がって上野三碑の一つである山上碑に寄り道を。
その途中で見たのは
「来迎阿弥陀画像板碑」
(左)。保護のため鉄板が被せられたているため碑面を見ることはできないが説明板によると鎌倉時代中期の建治4年
(1278)
の作で、阿弥陀如来一尊が線刻されているそうだ。
数分先の階段下にあったのは
「万葉歌碑」
(右)。
吾が恋は まさかも悲し草枕 多胡の入野の おくも悲しも
万葉集 巻14-3403
山上碑は この先の長ーい階段を上った所。
階段を上りきった目の前の小山は
「山上古墳」
(左)。7世紀中葉
(飛鳥時代)
に築かれた円墳でその後の辛巳年
(天武天皇10年・681)
に縁者の黒売刀自を追葬。その際、供養のため碑が建てられたという。
その碑が隣の
「山上碑覆屋」
(右)に納められている。 納められているというよりは碑の保護のため覆屋で囲ったもので その碑が国特別史跡に指定された上野三碑の一つ、
山上碑
。碑は放光寺の僧であった長利が無き母の黒売刀自の供養と名族であった母と自分の系譜を日本語の語順53字で刻んだもので、天武天皇10年
(681)
に建てられた日本最古級の石碑。
三本辻まで戻り山裾の道を10分ほど歩いた辺りから旧道が復活するが、ここでちょっと寄り道を。
忠霊塔の脇を通って向かった先は
「山名八幡宮」
(左)。 社伝によると平安時代後期の安元年間
(1175~77)
に源氏の一族、山名義範が豊後国
(大分県)
の宇佐八幡宮を勧請し社殿を造営したのが始まりとされる古社。
幣殿も素晴らしいが本殿は江戸時代中期に再建されたもので
素晴らしい彫刻
が施されている。
階段を下りた随身門のすぐ先に上信電鉄の線路が横切っているが、さらにその外側に
「たちわりの石」
(右)なる大石が柵の中に横たわっている。慶長5年
(1600)
、馬庭念流中興の祖・樋口定次が天真流村上天流と試合をするにあたり山名八幡宮に参篭。満願の日、琵琶の木剣でこの石を断ち割ったという。
山名八幡宮から旧道に戻ったら上信電鉄の踏切りを越えて県道30号に入り10分ほど歩いたら脇道から高崎商科大学脇を通って一本松橋を渡っていく。
途中に石仏・石塔が幾つかあるのでまとめて紹介。
県道に入って4~5分歩くと、道路際に
公衆電話ボックスがあるではないか。
その隣に石像が2体。
高崎商科大学手前の道端に青面金剛塔と
刻まれた文字庚申塔。
一本松橋を渡り、新幹線の高架下を通った
先に御嶽山。 階段下に馬頭観音・庚申塔・
二十二夜供養塔が。
道路際に天保14年(1843)の道祖神。
一本松橋を渡ってかれこれ30分、住宅地の一角に鎮座しているのは
「放光神社」
(左)。この地は古くから山上碑を建立した僧・長利の法光寺跡と伝えられ神社が祀られてきた。一方、前橋の山王廃寺の場所が法光寺跡との説もある。
すぐ先を左に曲がり上越新幹線のガード下を通った先は
「定家神社」
(右)。何故ここに藤原定家が。
駒とめて 袖うちはらう かげもなし 佐野の渡の雪の夕暮れ
定家が詠んだこの和歌と佐野の地を結びつけ高田神社に定家を合祀したのが後に定家神社と呼ばれるようになった。しかし、 この和歌の佐野は別の地とも言われている。
広い境内の左手に
「芭蕉句碑」
(左)がある。
松杉を 誉めてや風の かほる音 芭蕉
境内右手には佐野を詠った
「万葉歌碑」
(右)も。
佐野山に 打つや斧音の遠かども 寝もとがころが おもに見えつる
万葉集巻十四 東歌3473
定家神社を出て新幹線の高架下を4~5分、十字路を左に下っていくと
「佐野の舟橋跡」
(左)に今は舟橋ならぬ木橋が架けられている。木橋とは風情ある橋だ。
多くの歌人に詠われたこの地で一首・・・ ・・・ う~ん、とても無理だ、代わりに和泉式部の一首を
いつ見てか つげずは知らん東路と 聞きこそわたれ佐野の舟橋
十字路まで戻り新幹線の下を通ったら右へ曲がり坂道を上り切ると謡曲・鉢木の舞台となった
「常世神社」
(右)。
境内に
「鉢木の絵図」
(左)と解説板があるのでその一節を。
大雪の夜、旅の僧が佐野源左衛門常世のもとに一夜の宿を求めてきたが常世は極貧の身。寒さをしのぐ薪にも苦労していたが、
旅の僧のために大事にしていた鉢の木(梅・松・桜)を砕き焚き火にして旅僧に暖を。
常世は旅僧に「今は極貧の身だが鎌倉に急があればすぐにでもはせ参じる」と胸の内を語ったのだった。それからしばらく後、各地の武士に
鎌倉から召集がかかり常世も「いざ鎌倉」と駆けつけたのだが、かの旅僧は鎌倉幕府執権・北条時頼だったのである。
言葉通りに鎌倉へはせ参じた常世に時頼は梅・松・桜に因んだ地名の3ヶ所を領地として与えたのであった。
常世神社を出て旧道に戻ると明治34年
(1901)
の馬頭観音があるが、その丁字路を左に曲がり5分ほど歩くと
「佐野の船橋歌碑」
(左下)が見られる。
かみつけの佐野の舟はしとりはなし 親はさくれどわはさかるがへ
万葉集巻十四東歌 の中の一首だが、佐野の舟橋に係わる村の若い男女の悲哀が刻まれたこの歌碑は文政10年
(1827)
に建てられたもの。
この先は住宅地の中の狭い旧道。10分ほど歩くと道路際に
「馬頭観音
(左)
と秩父巡礼道道標
(右)
」
(右)が。 刻まれている行き先は 「左 婦じおか ちちぶミち 右 高崎」。
そのすぐ先に可愛らしい
夫婦道祖神
も。
夫婦道祖神の横を道なりに進み新幹線の下を通ると荘厳寺に突き当たる。その左側が
「琴平神社」
(左下)だが、随身門が面白い。
この門は随身と仁王が同居。北側から入ると随身門を通り琴平神社へ、南側から入ると仁王門を通り荘厳寺へ。 荘厳寺は琴平神社の別当であったことから随身と仁王を一つの門に?
琴平神社の由緒も面白い。 この地はお稲荷様が祀られていたのだが、高崎藩士寺田宗有が、なんと讃岐から一昼夜で分霊を勧請し創建したという。時は文化年間
(1804~17)
のこと。
旧道は琴平神社と荘厳寺の間の細い道を進む。県道71号を越えると城南緑地の一角に
「鎌倉街道記念碑」
(右)が据えられているが、そこには鎌倉街道のルートが詳しく刻まれている。それはまさにいままで歩いてきた道だ。
鎌倉街道記念碑の先で上信電鉄の踏切りを渡り、国道17号
(中山道)
の上を通ったらしばらくは住宅地の中の道を進んで行く。
国道17号を横断して15分ほど歩くと公園の向う側に
「愛宕神社」
(左)が見える。 由緒によると、和田城
(後の高崎城)
の鎮護神として和田六郎兵衛義信が京都の愛宕神社御分霊を祭祀創建されたとある。年代は鎌倉時代か。
愛宕神社先の十字路を左に曲がってちょっと寄り道を。
向かった先は
「小万地蔵」
(右)。説明碑によると、鎌倉時代、ここを通りかかった廻國者夫妻の妻小万が病で没す。里人がこれを愍みここに地蔵尊と小宇を建て冥福を祈ったという。
十字路まで戻り数分歩いた先の交差点を右に曲がると高崎で一番古いと言われる
「興禅寺」
(左)。 平安末期の治承元年
(1177)
に新田氏の祖である新田義重の開基と伝わっている。一時衰えたが和田城主和田信輝が菩提寺として再興。
交差点まで戻りすぐ先の佐藤病院に行くと、玄関右手の奥まった所に
「化け石」
(右)と呼ばれる大石が。
佐藤病院の西側にある光明寺の小史プレートの中に・・・向雲寺南の畠にあった和田三石の一つ、化け石の・・・と記されているが化け石の詳しいことは分からない。
光明寺南側の竜広寺に
「元ロシア兵之墓」
(左)がある。日露戦争でのロシア兵捕虜五百数十名が高崎市内の寺院などに収容されたが、死去した三兵士が陸軍墓地であったこの地に葬られたのだった。
また、墓地の一番奥まった所に正岡子規と親交があり、境涯の俳人と呼ばれた村上鬼城の墓がある。
光明寺北側の寺院は高崎城主酒井左衛門尉家次の開基による向雲寺。
向雲寺から数分歩くと
「高崎城三の丸外囲の掘」
(右)。 ついに目的地の高崎城址に到着です。
建物遺構がほとんど無い高崎城だが、ほんの一部だけ遺構が残っているので、それを見て鎌倉街道上道の旅を終了とした。
高崎城は徳川四天王の一人、井伊直政が旧和田城の跡地に築城。明治6年
(1873)
の廃城令で陸軍省の管轄となったが、建物は廃棄または民間に払い下げ。残ったのは堀と土塁だけ。 ところが民間に払い下げられた
「乾櫓と東門」
(左)が旧名主の梅山家に現存していることが分かり群馬県指定重要文化財に。昭和54年
(1979)
に現在地に移築・復元。
帰路の高崎駅に来ると、通路に
「上野三碑
(レプリカ)
」
(右)が展示されているではないか。時間の都合で見学できなかった金井沢碑と多胡碑も見ることができたとは、 終わり良し の旅であった。
前の街道
神流川から西山名駅
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